第18話

文字数 9,064文字

この家に変化が起きたのは5年くらい前だ。甥が幼稚園に行き始め、妹は短時間のパートを始め、そして母にがんが発覚した。
胃がん、ステージⅢ。
こんな時も妹に母を任せっぱなしだった。その頃社長の勧めで、独立した形を取る準備で忙しさのピークで正直手が回らなかったのだ。それでもまだお金は出しているという自負と1回目の入院の時は甥の幼稚園のお迎えくらいはできていたので、妹も黙っていた。流石に、母の手術の日は仕事を入れずには過ごしたものの、いつの間にか仲良くなっていた妹と奥さんが、入院から退院までを支度をしてくれ、私はいるだけの存在で終わった。
母は、一度は生還した。術後もしばらくは良好で、以前のような生活も出来ていた。
しかし、少しずつ色んなきしみが出てきていたのかもしれない。在宅が増え、私は事務所代わりにしている部屋へ引きこもり、食事すら一緒に取れないことが増えていった。
私が、昼に陣取っているその場所は、母と一緒に寝室としても使っている部屋だったので、母が眠くなる頃に部屋をチェンジして、私はリビングで遅くまで仕事をしていた。
その姿に、大病を経験した母は少し懸念をしていたようだ。自分がいなくなったら、私達姉妹のバランスが悪くなるのでは、と。
その母の心配は当たっていた。甥が小学校に上がった頃から妹は、私にわざと聞かせるように、甥がもう少し大きくなったら、ここから出ると言い出した。一度言い出すときかないので、私は放置気味だったが、母はとても心配していた。妹は手始めに、甥に料理を少しずつ仕込みだした。最初はレトルトを温めたり、カップ麺を一人で作らせたりした。お風呂も一人で入れるようになり、包丁が少し使えるようになり、留守番が出来るようになってきたのもこの頃だ。次第に、できることが増え、その延長が、私に飲み物を作れるようにもなった。
あまりに頑なすぎる態度に、せめて伯母として手助けさせてほしいと言ったものの、なかなか受け入れてくれない。今までも十分すぎるくらい援助はしてもらったと言い張る。仕方なく母に間に入ってもらい、今、彼が夢中になっている勉強方法を提供できた。
「お金のせいで、塾にすら通わせられなかったのは申し訳なかった。」
母の、その一言を聞いた妹が折れた形で、私が差し伸べる甥への唯一の手助けとなってしまった。そしてその一言が、私達姉妹への母からの最後のアドバイスになった。
 メロディが聞こえた。スマホにメッセージが来たらしい。表示が妹だったから、甥にそれを確認してもらった。
「もうすぐ帰るから、何か食べたいものはある?」
という内容だったので、代わりに対応してもらった。子供はすぐにそういう操作を覚え、成長していくものだと感心する。ネットでの買い物が苦手だった母が四苦八苦しているので、甥が入力担当だったのを知ったのは、母にがんの再発がわかり、また入院をする時のことだった。その頃、甥は小学校に上がり、妹が少しずつ1日の中で働く時間を伸ばし始めた時期で、母が本格的に苦手なタブレットで買い物を注文しなければならない状況になった際、甥は妹がしているところを見て覚えていたらしく、
「おばあちゃん、ここはこうだよ。」
と、的確に指示して以来、二人で一緒にという名目で、選ぶのは母、入力するのが甥という役割で、注文していたらしい。だから、母の急な入院で色々と買わなければならないと発覚したときに、急に準備をし、
「どれを買うのか教えて。」
というので買い物までこなせることが分かった次第だ。だから、今では、難なくメッセージを返信している。私がほしいと思ったものと、自分が欲しい物を返信して、私にスマホを返してよこした。
 気分が落ち着いてきたら、自分と妹親子を比べだして、一つの考えが巡ってきた。この後、その思いに支配されていくのを、甥の後ろ姿を見ながら受け入れていた。そういう生き方もあるのかもしれない。なんとなくそれが正しく思えてきた。
 30分も過ぎた頃、妹が仕事先から帰ってきた。私が頼んだものは、私と甥が共通して好きな果物と、甥のリクエストのスイーツだった。感のいい妹は、その注文で甥をさっさと眠らせることで、聞かせたくない話をしようとしている私の策略を見抜き、ピザのデリバリーを注文した。想定通り、彼はよく食べ、満足して早めに就寝してくれた。
「なんか、飲まない?」
と、お酒でも飲まないと話せない気がして誘ったら、飲むというのでワインを開ける。
普段、甥が起きているときは、社長夫婦が遊びに来たときくらいしかお酒を出すことがない。一学年違いの友達同士で二人遊びをしているから、気兼ねなく飲めるからだ。
ワイン用に妹はチーズを用意してくれた。場を作った割に、落ち着いているから妹としては、なんとなく複雑な気分なのかもしれない。母の死に、仕事も手につかず見かねた社長が一時的に仕事を取り上げ、知り合いの田舎の旅館へと連れて行かれ、世話焼きが好きな女将のおかげで復帰できた経緯も妹は十分に承知している。だから静かにまっている。
 少し、酔いも回ってきた頃にがんのこと、そして今後について家族ともう一度病院へ来いと言われたことを伝えた。妹は、明日出勤してすぐに交渉してくれることを約束した。
母が死んで甥を挟んで泣いた以来、妹は久しぶりに隣に座って、一晩中泣く代わりにボトル1本開けるまで付き合ってくれた。久しぶりに家族のありがたみを知った気がした。
母は、妹と私にとっていつだって緩衝材だった。父の代わりに父になろうと思っていた姉、父の存在を求め続けた妹。進路を決めなければならない時期から、ずっとどこかで男性の影があって、母を心配させてきた妹と、そういうことで叱れない母に代わってよく喧嘩をした。何度も何度も。
でももし、妹がとてもいい男性と巡り合って、そっちで生活したらこんな時に、病院の付添は頼めてもこうやって二人で並んでいたかどうかもわからない。母が死んでしまった時、私は働く意味も意義も無くしていたかもしれない。あの時、母が引き止めたから妹は甥とここにいて、私はかろうじて父の役割というので存在価値を見出しているのだ。
なのに、やっぱりどこかにズレがある。そんな姉にこの後妹は呆れるのだ。
がんのステージは母より若干進行しているようだったが、取り切れば治せる可能性が高いという話をされた後、私は妹が思ってもないことを言い出した。
「先生、もし切らずに放置したら、いつまで生きられますか?」と。
妹も主治医も看護師もきょとんとしていた。
私はすこぶる冷静だったのだが、皆は母のときの事を知っているので、主治医ですら心配して落ち着くまで少し休んで、と院内のカフェスペースへ行って二人で話すように促された。外では妹が呼んだらしく、奥さんも来ていた。3人でそこへ辿り着くなり、最初は心配なトーンで話し始めていたのに、私が出した結論までの経緯を聞くなり、烈火の如く私を叱りだした。奥さんが妹の怒り様を側でオロオロと眺めていて申し訳なかった。
 妹との喧嘩は、大抵妹が激烈に怒って私は割と冷静に対応する構図が常だ。大人になり甥ができてからはずっとなかったのだが、母が死んでから数カ月後に久しぶりに大きく衝突した。
 私は働くことに一生懸命で家のことは一切してこなかった。在宅で家にいることが多くなっても、身の回りの世話は元気だった頃すべて母がしていたらしい。らしいというのを知ったのは、妹が爆発したからだ。
きっかけは食事後。食べ終わった食器を台所の洗い場に置いたままだったことだった。母がいなくなってからも、生活リズムを変えずに、食べたい時に食べ、寝たい時に寝る。そういう付随は、仕事についているので、海外にもクライアントがいる私に規則正しい生活が難しく、そこをうまくフォローしてくれていたのが、母だった。その後、解決出来る物もあったが、妹からすれば少しずつ生活のだらしなさが目立つようになってきて、共有スペースに侵食してきたのを、機関銃のようにまくしたてられた。ただ、その時の私はまだ、洗濯も食器洗いも全自動なのだから、それぞれに突っ込めば済むと思っていた。妹の説教を聞いて初めて、食器洗い機には予洗いが必要だとか、乾燥機付き全自動洗濯機は、埃取りが排水溝と排気口の両方必要だとか、そういう細々したことを全く知らなかったことに行き当たった。母がいる時は、それらを二人で手分けしてやってくれていたのだ。でも、今は違う。甥はまだ幼く、彼女の手助けなしでは生きていけないが、姉である私は成人しているからだ。怒るのは当たり前のことなのだ。手のかかる大人の面倒を見られるほど、妹は寛大じゃなかった。
喧嘩の結果とうとう、食事を作ってくれるだけになった。理由は簡単。一度に多く作ったほうが楽だし出来ない理由でお弁当やデリバリーをされると甥へ説明出来ないからだ。
彼女がしたのはそれだけじゃない。わざわざ私のいる前で甥に
「ママは、高校までしか面倒を見ない。」
という持論をぶつけだした。甥に色んな事を本格的に出来るように仕込みだしたのはこの頃だ。遊ぶ時間も制限し、自分でなんでも出来るようにと、まるで私に対しての当て付けだった。
紆余曲折を経て、最近やっと遠いようで近い関係性に戻ってきていたのに、胃の調子がおかしいと気づいたのは、そんな関係性に慣れ始めた母の三回忌の時だ。仕事にかまけて、先延ばししつつ何とかやりくりして数日前に検査するという、冒頭の件(くだり)になった。
奥さんの運転する車で、自宅へと送り届けてもらっている間、そんな事を思い出していた。妹が、主治医のところへ言って家でもう一度話し合ってからまた来ます、と一旦病院を離れ、全員でこの後の話し合いにその休みを利用することになった。家についたら、社長も来ていた。奥さんが、子供の帰宅時間が迫っている事と、二人だけだと話にならないだろうからと気を回したようだ。家に上がってから、改めて胸の内を話し始めた。話の腰を折る素振りをする妹を社長が宥(なだ)めて、私が話をし尽くすのを待つように制してくれた。
私生活ダメ人間であるからこそ、今後のことに行き当たった時、頭に浮かんだのが、
「シングルマザーは大変だから。」
という母の言葉だった。手術を失敗するとは思っていない。少なくとも、母の主治医でもあったあの医者は有名な名医ではないが、知る限り転移もなかった。母が病気に負けたのは、再発したショックでうつ状態になってしまい、折角の2度目の手術も成功したのに、気力が負けたのだった。そこについては、個人の心の問題で誰にも解決できないことだった。それでも、母の世話を妹、甥の保護者代行が成り立っていたが、私が入院したら、妹は甥の面倒を優先せざるを得ない。最悪、看病は誰かを雇うとしても、妹の手前そこに触れなかったが、治療費はもとより、私がいなくなった後の二人の生活費を天秤にかけてあれこれ考えてしまった。母の時に、5年後の生存率の話を主治医がした説明。
 五分五分の確率。
もし、母のように再発したらその度に再手術。それを抱えながら仕事をしても、きっとその時は、手術前の半分くらいしかやり遂げる体力が残っていないのではないか。だったら、今の状態でギリギリまで全力で期限をつけられた範囲で生き抜いたほうが、多くを残せるのではという計算。
この病気の怖さは多々あるが、もし唯一いい点を上げるとしたら、期限のおおよその時期がわかるという点だ。今、持論を展開しているこのマンションも、実はあと1年ちょっとでローンも終わる。だから最低限住む場所だけは、何とか維持できるはず。伴侶も子供もいない私が残す先はこの二人なので、貯蓄等の目減りさせたくないというのは、妹には言わないが、常に社長には何かに付けて言ってあるので、その裏打ちされた私の心理を考えつつ妹とは違う立ち位置で話を聞いては、最後まで第三者的立場でアドバイスを私と妹それぞれにしてくれた。
妹も頑固だが、私もかなりの意固地でこうと決めたら、よほど覆す理由がないと、考えをかえないことも、社長は経験則で皆分かっているので、結果そのまま伝えても納得されないのもあり、切り札的に
「母さんの様に、切って結局2年とかで死ぬんだったら、切らずに5年くらい生きたほうがいいと思った。」
と言い放ち、それを最大の理由として譲らなかった。身内じゃない社長が、君の好きなようにすればいいんじゃないか、と先に折れてくれた。妹は途中から、一言も発しなくなった。そうしているうちに、甥が帰宅したので一旦結論は後に回し、子連れで再訪した奥さんが気を効かせてくれ、久しぶりに6人で夕食を共にした。子供らもなんとなく空気が重い事を感じているのか、いつもより静かに過ごし、その後社長一家は、まだ少し時間があるから焦らずによく話し合って、と告げ帰っていった。
その日から、甥が見ていないところで、ずっと妹と言い争いをしていた。そして言い争いに疲れ果てた妹が最終的に、
「お姉ちゃんは今まで、お姉ちゃんのやりたいようにしてきて今があるんだよね、じゃ、好きにすればいい。私は、お姉ちゃんがこの後苦しい思いをしても、関係なくあの子が小学校を卒業したら、ここを出ていくから。」
と、半ば諦めてそう言い放ち承諾してくれたのだった。
それからというもの、甥を介しての業務連絡のようなこと以外、私と話してくれなくなった。何年か振りに、子供じみた姉妹喧嘩に突入したようだった。
再度、診察に行き改めて、自分の意見を先生に伝えたところ、何もしないと4~5年だということを聞いた。私は晴れやかにそれに納得し、妹は終始下をみてその言葉を受け止めていた。
 今日は、奥さんが一緒じゃないので帰りはタクシーだった。その車内で久しぶりに
「何か、食べたいのある?」
と、他愛のない言葉を投げかけられた。妹なりの最大限の優しい励ましだった。
「あんたの作ったものなら、何でもいいよ。」と、かわいくない姉は不機嫌に答えるのが精一杯だった。ほんの少しだけ、仲直りできて本当に良かったと心底思った。副作用を考えて、薬にはギリギリまで頼らない事にした。以前よりあまり話さなくなったけど、出てくる食事を見ると、態度とは裏腹にものすごく体に良さそうな献立になってきて、それなりに気にはかけてくれていることがわかる。週に何回かは、甥が散歩に誘ってもくれる。それも妹の差し金に違いなかった。
 そんな薄氷のような毎日が突然終わった。
 その日は、主治医に言われた月に1回の診察で、定期的な検査が6回目を迎えた。だからなのか、妹が久しぶりになにか食べたいものはあるか聞いてきた。このところ、ずっと消化にいいものばかりを食べていたから、久しぶりにアレが食べたいというと、そう言うと思ったといって職場へと出かけて行った。その後ろ姿はいつもどおりだったのに、その数時間後に妹はまさかの帰らぬ人になった。
検査を終え、主治医と話していると、急に慌ただしく看護師が入ってきて、私を置いて一旦席を外した。戻って来た顔は蒼白で、妹が救急車で運ばれてきた事を告げた。
救命救急センターは数人の医師が妹の命を救うべく頑張ってくれていた。甥のことが頭を過(よぎ)り、社長に連絡した。妹は、甥が来るのを待っていたかのように、数分後手の施しようがないと全ての処置が終わった。
交通事故に巻き込まれたのだ。理不尽な死だった。ちょうどその頃、自宅の置き配入れには、私が食べたいと言っていた食材が届けられていたことを後で知った。
この世界に、余命を宣告された私と唯一の血縁者の甥が残された。
流石に何も手につかず、ほぼ全てを社長たちが仕切ってくれた。遺体安置所できれいにされて対面した時に号泣していた甥は、私の憔悴した顔を見てからは、気丈にも通夜も葬式も泣かずに過ごした。
その姿を見た社長が、私を呼び出して話をしたいと言いだした。もう一回、手術をする方に考えを変えないか、という内容だった。あの宣告を受けた日から半年も経過しているこの状況で、今からじゃ遅いよと勝手に諦めて、とうとう病院へと通うのもやめてしまった。あそこに行けば、妹の最後を思い出し辛くなるからだった。主治医が、手続きをしてくれたようで、近くの小さな医院の先生が訪問してくれた。これでいい、このままたった一人残される甥のために、1円でも多く残せるお金を用意しようと、今まで以上に寝る間も惜しんで仕事に邁(まい) 進(  しん)した。元同僚の娘さんが、なかなか仕事がないというので、アルバイトとして甥の世話を兼ねて家事代行をしてもらうことになった。痛い出費だが、他に頼むよりは安価で、しかも知り合いということで心強い。ここまで準備すればもう安心、のはずだった。
妹の四十九日も過ぎた頃、学校から呼び出された。甥が、友人に怪我を負わせしかもそれだけじゃなく、最近物を叩いたり投げたりするようになったという。担任も、立て続けに身近な人がなくなったことで様子見をしていてくれていたそうだが、もう手に負えなくなってきたというのだ。迎えに行ったら、保健室でしょんぼりしていた。今日は、早退させると行ったら了承してもらえた。
気分転換のために、バイトと三人で旅行へ行くことにした。例の旅館だ。仕事が終わっていなかったから、暫くはバイトにまかせて色々してもらった。バイトに行ってほしい場所を伝えて送り出し、せめて丸一日くらいは二人で過ごせる時間を作らなければと、女将にもう一部屋用意してもらいそこで仕事をした。それでも食事は合流して、地の物を堪能する。美味しい食事を前にしているのに、甥は嬉しくなさそうにしていた。女将が見兼ねて、近所の子供らが集まるところへと連れて行ってくれた。女将の孫もいるそうで、気兼ねしなくていいと行ってくれたので甘えた。田舎の子と遊ぶ機会がないので、一生懸命に知らない遊びをしている姿を、バイトが写真に収めてくれる。少しいい笑顔が戻ってきてホッとした。そんな周りの協力もあり、何とか仕事も片付けられ、3日後ようやく二人で出かけられる時間が出来た。
母が亡くなり、その後仕事の合間に何度も来ているこの場所は、妹と甥と三人でも来たことがあり、馴染み深い場所でもある。
「ママと三人で行った場所、覚えている?」
そう聞くと、うんと頷く。初日にバイトにこっそり頼んで彼は既に行っているが、思い出の場所は何度行ってもいい。道を忘れたと嘘を言ったら、連れていくと言ってくれた。逞(たくま)しくなったが、後ろ姿はまだまだ小さい。これからもっと成長していくだろう姿を妹はもう見ることが出来ない。私は、彼が一人でもしっかり生きてける、その全ては無理でもせめて最低限の踏み台くらいは残った時間で作らなければと、改めて思いながら涙をこらえるのに必死だった。
このちょっとした高台にはベンチもあり、しかも遠くまで海を見渡せるから、ここに来るときは、小一時間眺めるだけに費やせる贅(ぜい) 沢(  たく)な場所だった。妹と、母も連れてこれたら良かったと言っていたのを思い出す。なんとなくベンチも一人分開けて座った。あの日、妹と三人で並んだ時のように。暫く眺めていくつかの船といくつかの飛行機を見送った。そして、甥と向き合って話をする。学校の楽しいことは話せても、どうして暴れたのかなかなか答えが出てこなかった。母や妹だったら彼の苦しみから開放できるのだろうか。最後に、学校に行きたくないなら行かなくてもいいと言ってみた。すると急に泣き出した。急すぎて、どう扱っていいのかわからなくなって、抱きしめるしかなかった。背中を擦り、落ち着くように優しく導く。神様に対して初めて文句を言いたくなった。妹を連れて行ってしまったことに対して。私はいつの間にか一緒に泣いていた。その姿を見たからか、甥は私が思ってもいない事を言い出した。
「僕が悪いことすると、心配だからおばちゃん死ねないでしょ。」
その一言で、甥の行動の真相がわかり自分の愚かさに気付かされた。祖母が死にママが死んだ。その間、たしかに甥はとてもいい子だった。そういえば母はよく「あの子は何でも出来てエライね」と言っていた。妹も似たような事を言って甥を褒め、そう言われることを甥は二人にとっていいことだと感じていたのだ。その結果、甥からすれば二人はその成長に満足して、甥の元からいなくなってしまったのだ。薄々、私の病気の重さを知っていて、一人ぼっちは嫌だといって彼はいつまでも泣き止まなかった。
私は、幼い甥をいつの間にか追い込んでしまっていたのだ。泣きつかれ、甥が寝てしまったので、バイトに来てもらい一旦旅館まで帰った。戻ると社長一家が旅館に来ていた。仕事が終わった連絡を受けたから合流しに来たのだという。社長の子供の声が聞こえたからか、寝ていた甥は起きて一緒に出かけていった。近所にできた友達を紹介するという。甥の事はバイトにお願いし、さっき甥と二人で話した事を社長夫婦に聞いてもらった。すると、社長から手術して生き延びる道を模索しないかと言われた。泣かれている時に一瞬頭によぎった事を言葉に出されて、自分の頭の中で出した反論を言葉にした。そのどれも二人に簡単に論破され、主治医と相談することで落ち着いた。半年も放置した自分を初めて殴ってやりたい衝動にかられた。
 主治医に相談すると、紹介状を出してくれた。もう少し専門性の高い病院で改めて検査をし、今後を考えたほうがいいと言うことになった。
数日後、バイトに家の事を任せ、検査入院をする。すると、奇跡的に以前見た状態より数値もよく、放置したのに進行もしていないことがわかったのだ。そのまま入院を延長して手術することにした。死ねない様に、強く生きるように仕向けた甥はその後、学校での素行の悪さも無くなり、以前の甥に戻っていった。
がんから始まった我が家の崩壊。でも、二人の大きな存在を失った壁を超えるきっかけ作りをしたのもがんだった。
まだ道半ば。この後、もしかすると再発して、結果、甥を一人ぼっちにしてしまう可能性はまだゼロじゃないが、成長をギリギリまで見届けるという新しい目標を持った私は、ある日、甥と話した高台に一人やってきていた。そして、最後の日まで藻(も) 掻( が)いて生き延びると海の向こうにそう誓った。
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