四九

文字数 5,842文字


 暑さも少し治まった夕方、僕、早坂海斗は家に帰って来た。お姉ちゃんは部屋にいるようだ。
 でも、未来さんが言っていたこともあって、部屋のドアの前から声をかけた。
「お姉ちゃん、いる?」
「あっ、海斗、おかえりなさい」
 部屋のドアは開いた。家の中はお姉ちゃんだけのようだ。
「パパとママは?」
「パパは、未来パパと一緒に飲みに行った。古い友人が集まるのだって。ママは瑞希先生の所に行ってからまだ帰って来てない。わたしはパパに留守番を頼まれたの。良い子にしていたら御褒美くれるってね」
「お姉ちゃん、それは、一言多いと思うよ」
「ははは…バレちゃったか」
「ところで、お姉ちゃん…」
「なあに?」
「五日の日の倶楽部の帰りに、僕に京都駅まで一緒に来てほしいって、伊都子さんに頼まれた。一年ぶりに会いたい人がいると言っていた。…でも、その話をした時の伊都子さん、なんか淋しそうだった。お姉ちゃんは何か知らない?」
「わたしの冗談がつまらなくなったとか?」
「あの…それは違うと思う」と、僕は答えたが、その時のお姉ちゃんは冗談なのか本気なのか見分けがつかなかった。
 すると、お姉ちゃんは、その場でごろんと仰向けになって寝転がった。
「お姉ちゃん?」
「…わたしね、脚本を作っている時に、よくこうやって頭を整理していたの。海斗もやってみたら」
 僕もお姉ちゃんの隣で、ごろんと仰向けになって寝転がった。
「海斗、伊都子さんは、それ以外に何か言ってなかったかな?」
「そう言えば、僕に証人になってほしいと言っていたけど…どういう意味かわからない」
「お姉ちゃんにもわからないけど、もし女の子としてなら、伊都子さんは、海斗を頼りにしていると思うのよ」
「どういうこと…?」
 僕が、そう聞いた時には、お姉ちゃんは静かな寝息を立てて眠っていた。
(あらら、留守番を頼まれているのではなかったの。しょうがないお姉ちゃんだな…)と、思いながらも、僕も考えているうちに、頭の中が真っ白になって、いつの間にか、そのまま眠りに入っていた。
 どうやら僕とお姉ちゃんが二人仲良く眠っているところを、瑞希先生の所から帰って来たママが目撃して、夏用の掛け布団で被ってくれていたようだ。僕の想像するあたり、「あらあら、仲のいいことね」と、言いながら…。
 僕たちは、そのまま朝を迎えた。何か息苦しくなって目を覚ませば、僕の唇がお姉ちゃんの唇と重なっていて、なおかつ、お姉ちゃんの体をしっかり抱きしめていた。すると、お姉ちゃんの目が開いた。とても、近すぎる…。
 僕は慌てて重ねていた唇を離し、お姉ちゃんから離れた。この後の展開を思えば、僕の顔は青ざめていたことだろう。
「…海斗?」
「は、はい」と、僕の声は裏返っていたと思いながらも、お姉ちゃんに何をされるかわからないので必死に構えていた。
 未来さんじゃないけど、(これは張り倒されるか、投げ飛ばされるかのどちらかだな…)と、思った。
「ん…?んん…」と、お姉ちゃんは、コテンッとまた眠ってしまった。
「た、助かった…」と、僕の正直な思いが、そのまま声になって出ていた。正にヘナヘナになっていた。
 今日は八月最初の演劇部の活動になる。お姉ちゃんと未来さんが真心をこめて作った脚本は完成した。その脚本を基に劇の練習に入っていくことになるだろう。大きな期待を胸に、今は学園への道をお姉ちゃんと並んで歩いていた。
「海斗、朝、何か息苦しかったような気がしたのだけど…何かあったのかな?」
 お姉ちゃんのその言葉に、僕はギクッとなった。その表現が、これほど似合うものは他にないだろう。
「…そ、それは、気のせいじゃないかな。お姉ちゃん、疲れていたのだよ。…そう、きっとそうだよ」
「うん…。それもそうね」と、お姉ちゃんは笑顔を見せた。(もう大丈夫だろう)と、僕はホッとした。
 場所は体育館。今日から演劇部はこの場所で練習することになった。やはり劇の練習のようだ。
「それでは皆さん、劇の配役を決めたいと思います」と、瑞希先生が一声を上げた。ついにその時が来たのだ。
 少し間が置かれた。この場の空気は静まった。瑞希先生は続けた。
「ナレーションに、平田伊都子さん」
(僕はてっきりお姉ちゃんと思っていたけど、でも、この劇のナレーションは、伊都子さんの方が合うな。お姉ちゃんなら、何かコメディ風になって、脱線しそうだしな…。このことはお姉ちゃんには言えないな)
「主人公の恋人に、川合未来君。その友人に、出門恭平君」
(やっぱり未来さんを置いて、この役を演じられる人はいないだろう。それに恭平さんとなら、いい味が出ると思う)
「主人公のお父さんに、平田孝夫君」
(これは意外…。孝夫さんは、劇団もあるから、役をしないと思っていたよ。…大丈夫かな?)
「主人公のお母さんに、わたし…」
(これもまた意外…。瑞希先生が自ら役をするとは思っていなかった。そんなに人が不足しているのだろうか…?)
「主人公の弟に、早坂海斗君」
「えっ?」と、僕は驚いて声を上げた。
「海斗君、どうしたの?」と、瑞希先生は聞いた。
「確かこの物語って、弟はいなかったと思うのですが…」
「実は…いました。確かに本の中には存在していませんでしたが、著者の人によれば、この物語には存在していた人でした。確認は取れています。そして、この役を演じる人も、君のお姉さんの希望でしたよ」
「お姉ちゃん…?」
「この役を演じられる人は海斗しかいないと思っていたの。主人公のことを良く知っている人だから…」
「じゃあ、次に進めます。主人公に、早坂海里さん」
「…ということなの。わたし、最初はナレーションかと思っていたけど、コメディ風になるからって、瑞希先生が…」
「なあんだ。僕の考えていたことと同じじゃないか」と、言った後、(あっ、しまった…)と、思った。
「海斗、あなた、そんなことを考えていたの?」
「お、お姉ちゃん、ごめんなさい」
「…と、言いたいところだけど、その通りなの」
「えっ?」
「海里さん、それは少し(いや、かなりだと思うけど)違うよ。主人公は君にしか演じられないと思ったからなのよ」
「瑞希先生…?」
「海里さんは、この物語とずっと一緒に歩んできた。つまり、主人公の心を知っているのよ」
「主人公の心…?」
「そう、それは君にしかできないことなのよ。…だから、君以外に考えられなかったの」
「僕も主人公がお姉ちゃんで良かったよ」
「海斗、お姉ちゃんのassistもお願いね」
「うん、わかった」
「じゃあ、早速、始めましょう。まずは脚本の読み合わせからね」と、瑞希先生の一声で練習は始まった。
 こうして演劇部の活動は佳境に入った。瑞希先生と孝夫さん以外は、劇の経験は今回が初めてで、やることなすことが、まさしく初体験だった。だからこそ、何事も一生懸命で、激しくなっていく活動を楽しめたと思える。
 そして約束の八月五日、この日の演劇部の活動は終了した。
「海斗、伊都子さん、お先に!」と言って、お姉ちゃんは駆け足で帰って行った。
「おい、海里、待てよ!」と、未来さんは、お姉ちゃんを追いかけて行った。
「未来君、駅まで競争よ!」と、お姉ちゃんの声が聞こえた。「今日は俺が勝つ!」と、未来さんの声が聞こえた。
(相変わらずだな、あの二人…)と、僕がそう思っていると、伊都子さんは横でクスクスと笑っていた。
「あの二人、本当にお似合いね。…じゃあ、海斗君、わたしたちも行きましょうか」
「はい、伊都子さん」
 この時は、伊都子さんが何を考えているのかが理解できていなかった。
 電車の中で伊都子さんは、何か深刻な顔をして、僕に話しかけてきた。
「もうすぐかな…わたし一年ぶりに京都駅で彼に会うの…」と、伊都子さんの表情は少し淋しそうだった。
「いいことじゃないですか…?」
「ううん…。彼とは半年前から連絡が取れなくなって…この間、やっと連絡が取れたの。でも、わたしにはどうも好きな人ができたみたいなの…。自分の気持ちが決められなくて、彼に会うことにしたの」
「…どうして、僕に付き添いを頼んだのですか?」
「優柔不断なわたしの証人になってほしいから…。あなたがいてくれたら、決められると思うの」
「そんな…そんな大事なことを、僕なんかでいいのですか?」
「…あなただからよ。一緒に活動した仲ということで…ねっ」
 そして僕たちは京都駅に着いた。待ち合わせ場所は改札口だった。どうも、その彼を、伊都子さんは見付けたらしい。
「わたし行くから、あなたはここで見ていて」と、伊都子さんは言って、その彼の所に行った。
 伊都子さんと、その彼は話をしていたが、途中で女性がその彼の傍にきた。すると…。
 バシーンという大きな音が響いてきた。
 伊都子さんは、その彼を張り倒したようだ。そして、伊都子さんはもの凄い勢いで、僕の方に走って来た。
「海斗君、行こう」と言った伊都子さんは、涙声になっていた。
 僕は、伊都子さんに手を掴まれたまま、近くの公園まで一緒に走ることになった。
「海斗君、少し屈んで目を瞑ってくれないかな…」と、伊都子さんは後ろを向いたまま言った。
「あ、あの…どうして、ですか?」
「先輩の言うことが聞けないの!」と、伊都子さんは怒鳴った。
「…わかりましたよ」と、僕は、伊都子さんの言う通りにした。
 少し間を置いてから、僕の唇に、何か柔らかい感触があった。すると、伊都子さんの顔が僕の近くにあった。
 僕は慌てて伊都子さんの両肩を掴んで、重なっている唇を引き離した。
「い、伊都子さん、何てことをしているのですか」
「…だって、わたし、あなたのことが好きになってしまったのよ」と、伊都子さんは涙を零していた。
「伊都子さんは、それでいいのですか。彼のこと、忘れられないのじゃないのですか…?」
「いいの…。彼はわたしのことを忘れていたみたい…。もう新しい彼女をつくってバカンスを楽しんでいたの…」
「伊都子さん…」
「わたしって、馬鹿みたいね…」と、伊都子さんはとうとう泣き出してしまった。
 僕はどうしていいのかわからなくなってしまった。そう言えば、お姉ちゃん、こう言っていたな。
 ―もし女の子としてなら、伊都子さんは、海斗を頼りにしていると思うのよ。
 お姉ちゃんのカンは鋭いようだ。女の子の気持ちは女の子がよく知っていることは本当のようだ。
「…そんなことないよ。僕は伊都子さんが、とても繊細で慎重な人だと思いますよ。彼に会ったことも、僕を証人にしたことも、自分の気持ちを確認したかったのですね。その結果、傷付いたとしても…。また勇敢な人だと思います」
「海斗君、あなたを利用したみたいになってごめんね。海斗君のファーストキスまで、勝手に奪ってしまって…」
「実は、セカンドキスになってしまいました…」と言ってから(わあ、また余計なことを言ってしまった)
「えっ、じゃあ、ファーストキスは誰なの?」
「あ、あの…そのことなのですが、二人だけの秘密にしてくれませんか。その人に怒られるのが怖いので…」
「そ、そんなに怖い人なの…?」と、伊都子さんは僕の方を向いてくれた。
「はい。でも、あれは事故で、わざとではなかったのですが…。僕のお姉ちゃんです」
「…納得」
「それと、伊都子さん、もう一つ言いたいことがあります」
「なあに?」
「僕は、伊都子さんのことが、好きになりました」
「えっ?…でも、わたしに同情してなら、無理しなくていいのよ」
「こんなことがあった後だから、そう思われても仕方がないと思いますが、僕は本気です」
「…本当に?」と、伊都子さんが言った時、僕は伊都子さんを優しく抱きしめた。
「本気でなければ、こんなことしませんよ。…大好きです、伊都子さん」
「海斗君、わたし嬉しすぎて、泣いていいのか、笑っていいのか、わからなくなったよ…」
「あの…伊都子さん、暫くこのままでいてくれませんか。僕の胸が熱くなってしまって…」
「…いいよ。わたしもこのままいたいから」
 僕たちはお互いのぬくもりを感じ合っていた。僕は人との出会いと別れに、それ程、執着はなかったけど、どうしてか、伊都子さんだけは、このまま一緒にいたい。別れたくない。すると…何故か、涙まで溢れてきた。
 この込み上がってくる熱いものは、何だろう…。それは、今まで感じたことがないものだった。
 そして時間が経って、僕たちは夕陽の中を、一緒に歩いた。…明日も、また会えるのだね。と、思いながら。
「伊都子さんの家って何処なの?」
「メゾンタウンの六棟一〇三号室」
「海斗君は?」
「僕は、メゾンタウンの九棟二〇一号室。…ということは、僕たち同じメゾンタウンにいたの?」
「そうだね。わたしたち近い所にいたのね」
「世の中、狭いものだな…」
 色々とお互いのことを話しているうちに、メゾンタウンに着いた。
「じゃあ、わたしはここで…。また明日ね」
「うん、伊都子さん、また明日」
 この時の伊都子さんの笑顔はとても素敵に思えた。それが脳裏から離れずに家に着いた。
「海斗、おかえり」と、お姉ちゃんが迎えてくれた。
「あれ、パパとママは?」
「ママは瑞希先生と一緒に買い物に行った。パパは、また未来パパと飲みに行ったみたい。わたしはパパに留守番を頼まれたの。良い子にしていたらお小遣いくれるってね」
「お姉ちゃん、パターンを変えてもわかるよ」
「ははは…バレちゃったね」
「ところで、お姉ちゃん…」
「なあに?」
「僕は、好きな人ができたよ」
「誰なの?」
「お姉ちゃんも知っている人」
「うん…瑞希先生は先生だし、わたしの同級生は、あまり海斗と会っていないし…」
「…伊都子さんだよ」
「伊都子さんか。じゃあ、伊都子さんも海斗のことが好きだったのね。良かったじゃない」
「お姉ちゃんの女の子のカンが当たっていたよ。お姉ちゃんの言った通りだった」
「…わたし、何か言ったかな?」
 お姉ちゃんのその言葉を聞いた時、急に笑いが込み上げてきた。
「あっ、海斗、何が可笑しいのよ?」
「…だって、お姉ちゃん最高だよ」
「もう海斗ったら…」
 僕たちは一緒に笑い合った。そして、笑いが治まった時だった。
「お姉ちゃん、お姉ちゃんはずっと僕のお姉ちゃんでいてくれるよね…」
「当たり前でしょ。あなたのお姉ちゃんは、わたししかいないのよ」
「そうだね、お姉ちゃん」と、僕は思わずお姉ちゃんに抱きついた。
「ど、どうしたの?」
「お姉ちゃん…」
「もう…海斗も甘えぼさんね」と言ったお姉ちゃんは、僕の背中をポンポンと優しく叩いてくれた。



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