〇九
文字数 953文字
同じく二〇一五年六月二十日、清川屋台荘で独りの部屋に未来はいた。
カーテンが半分閉められたままの電気もついてない部屋の片隅で…。
「さようなら」との言葉に何も言えなかった自分がそこにいた。
初恋、それは未来にとって青春残酷物語になってしまった。青春は二度と帰らないものだから、なお始末に悪い。そして、初恋というのも二度と帰らないものである。…初恋の人。その名は妙子。
妙子は春の人、次に訪れるのは夏の人なのだろうか。
ああ…妙子。
妙子は春の桜のように散りゆき、その跡さえも残してはくれなかった。
君は遠い夢の中…。
結末。愛していたけれど、愛してはいけない女性だった。
人妻だから…。
彼女は夫である北川満…。えっ?北川。実は察しの通り、満はあの瑞希の兄であり、初子の息子である。話は少しそれたが、妙子は満との離婚を決心し、家を飛び出して戻らなくなった。
原因はごくありふれたもので、満は劇団で座長を勤めており、忙しい毎日を過ごしていた。その時間のすれ違いに耐えられなくなり、挙句には子供を置いて家を飛び出したのである。
家庭に敗れた主婦失格の人妻。その名を背負いながら行き着いた場所が未来なのである。
彼が彼女の唯一の逃げ場所だった。が、そんなことから逃げているうちに、逃げてばかりでは何の解決にもならないことを、教えてくれ、また救ってくれた人がいた。まさに影で動いていた人である。
「もう一度、ちゃんと向き合ってみたら」との言葉を残した人の名は、あの北川瑞希だった。
実は妙子は瑞希と中学時代からの同級生であった。そして、彼女の夫である満の妹だった。
妙子と満に和解の場をつくってくれたのは、瑞希だった。
ただ、妙子の逃げ場所が未来だったことや、妙子と満の仲を和解させたのが瑞希ということは、未来と瑞希はお互い知らなかったのである。…いや、知らないままのほうがいいのである。
こうして彼女の謎は解けたことになる。北川妙子(旧姓・佐藤)。見たところまだ十八か十九歳にしか見えないが、実は二十五歳の一児の母親だった。その子供は五歳だった。また夫の満は劇団山越仲良座の座長を務めており、瑞希の兄でもあった。また瑞希とは中学校からの親友である。
こうして妙子は満の待つ北川家に戻り、未来は苦い失恋の味を覚えた。