一一

文字数 981文字


 引き続き二〇一五六月二十日、その日の夕方、未来は静かに起き上がり、部屋を出て行った。
 そして、バイクに乗り、向かった先はメゾンタウンの九棟の二〇二号室、つまり、彼の実家だった。
 淡い恋心が楽しき思い出となった男と、初めての恋をなくした男が、リビングのテーブルを囲んで対面した。
 その二人は親子の関係にあった。…鴇と未来である。
「こんなこと口にしたくないけど、特に親父には言いたくないけど、俺はもう耐えられないんだ」
 先に話しかけたのは未来だった。これから言うことは、醜い愚痴だとわかっているけど…。
「このまま胸に置いておくには…重すぎる」
「何だ。言ってみろ」
 時計の秒針が聞こえる程の静かすぎる時間…少し間が置かれる。
「急にうまくいかなくなったんだ。何もかも…」
 その身を小刻みに震わせながら続けて言う。
「以前は何をやってもこなせたのに、今は、学校も授業について行くだけで精一杯だし、アルバイトではヘマばかりやるようになったし…そんなことを繰り返しているうちに何もかもがいやになって、逃げ出したくなってきたんだ」
 また間が置かれて、時計の秒針の動く音が聞こえる。男同士の話し合いは言葉の数ではない。この一言、一言の後の間がその言葉に重みを与えてくれる。そして、深く息をつくと鴇は静かに話し始める。
「何をやってもうまくいかないから逃げ出したいのか。何事もうまくいけばいいってものではない。人は生きていく中で障害や衝突に遭い、その繰り返しで自分を鍛え、成長していくんだ。甘くないよ…人生は。だから、逃げるな」
 険しい表情にはなっていないが、続けて話し始めた。
「なあ、未来。このことはお前に言うまいと思っていたが…。お前にはお前にしかできないことがあると思うから、言うことにするが、瑞希先生が今、大変なんだ。この意味は、お前にはわかると思うから、これ以上は言わないが、力になってほしいんだ。このことは親父の頼みだと思ってほしいんだ」
 と、本当にそれ以上は何も言わなかった。無言でその場を去っていく親父の背が大きく見えた。
(親父…)
 未来は言葉を失った。ただ父親である鴇の背中を眺めるだけである。
 思ったことは何でも口に出して言う自分とは違い、普段から口数が少ない親父であるが故に、その奥底に秘めている強さが溢れてくるようだった。自分とは比べものにならないくらいに…。



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