〇八

文字数 2,618文字


 二〇一五年六月二十日。この日は、運命の始まりの日といえよう。
 雨降って地固まる。梅雨の季節は終りを迎えようとしていた頃、メゾンタウンに、ある家族が引っ越してきた。
 場所は九棟の二〇一号室のようだ。その日の曜日は土曜日、鴇は隣人になると思われるその家族への挨拶と、職場の雑務をするために玄関を出た。
 ここで語らなければならない。川合鴇は、小さな町工場を営んでいた。つまりそこの社長である。その前は製造業の会社に勤めていた。今から六年前に独立して君子の助けを得ながら会社を立ち上げたのである。従業員は彼の他に二名いた。君子はそこの経理兼事務を担当していた。一旦ここで締め括るとしよう。
 鴇の目の前で、重い荷物を持ち上げようとしている女の子がいた。鴇が荷物を運ぶのを手伝おうとして、その子の背後から手を差し伸べた時、その差し伸べた手をつかまれ、一瞬のうちに彼の体は宙を舞った。そしてドスンという大きな物音がした。(一体、何が起きたんだ)と、地面に叩きつけられた彼は思ったに違いない。
「あっ」と、その女の子は地面に倒れている鴇の顔を覗き込んだ。
「いたたた…」と、鴇は声を発しながら上半身を起こした。
「あらら…おじさん、ごめんなさい。大丈夫?」と、その女の子は心配そうに言った。
「ははは…大丈夫だよ。今の技は一本背負いだね。君は柔道を習っているのかい?」
「うん。柔道を習っているの」
「そうか。じゃあ、強いんだね」
「うん!」と、その女の子が笑顔になった。その笑顔を見た時、鴇は、その女の子がとても懐かしい誰かに似ているような感じがした。(まさか…)と、鴇の脳裏には、ある思い出が鮮やかに蘇った。ちょうどその時だった。
 一人の女性と、その子供と思われる男の子が、こちらに向かって駆け寄ってきた。
「こら、海里!あなた、またやったでしょ」と、その女性が言った。
「あっ、ママ、ごめんなさい」と、その女の子は海里という名前らしい。
「お姉ちゃん、またやったの」と、その男の子は、その女の子の弟らしい。
「海斗、お姉ちゃん、またやっちゃった」
 鴇は、今の状況を整理するとともに思い出は駆け巡り、海里とあの人が重なった。そして目の前にその人がいる。
「すみません、うちの子が失礼なことを…。お怪我はなかったですか?」と、その人が鴇に声をかけた。
「き、君は、もしかして…愛子…じゃなくて…」と、鴇が言いかけた時、その女性は言った。
「リンダです。あなたは…」と、少し間を置いてから「もしかして、鴇君なの?」
「鴇だよ。…と、いうことは愛子の本当の名前はリンダだったんだね」
「ごめんなさいね、ややこしくて…。あたしの名前は、臨舵・リンダ・ベイカーと言うの。でも、結婚をして早坂臨舵になったの。でも、あたしmiddle nameだから名前はリンダなの」と、その女性の名前はリンダだった。
「なあ、リンダ。早坂っていうと、これもまさか…」
「そう。My husbandは、貢です」と、リンダは笑顔で答えた。
「そうか、貢か…。リンダ、今更だけど、いい奴と結婚したんだな」
「じゃあ、鴇君は、貢のこと知ってるの?」と、リンダは不思議そうな表情で言った。
 またまた、ちょうどその時に、一人の男性がこちらに駆け寄ってきた。
「リンダ、どうした?」と、その男性は言った。
 そこには、ゆっくりと立ち上がった鴇がいた。
「み、貢か」
「と、鴇なのか」
 こうして鴇と貢は再会した。この二人が、どのきっかけで出会っていたかは、また語るとしよう。
「あなた、どうしたの?」と、そこに君子が姿を見せた。
「か、葛西…いや、君子なのか」と、貢は驚きの声を上げた。
「…貢君なの」
「貢、君子と知り合いなのか?」と、鴇は貢に聞く。
「ああ、昔、さんざん世話になったんだ」と、貢もまた思い出が駆け巡っていた。
「鴇、今更なんだが、いい人と結婚したんだな」と、貢の胸はいっぱいになっていた。
「今度、ゆっくり会おう。お前の引っ越し祝いも兼ねて」
「ああ、楽しみにしてるよ」
 この話の続きは、また後日になりそうだ。そこで残される謎は明らかにされるであろう。
 まずは、この二組の家族について整理をしよう。
 早坂家の場合。
 まだ結婚をする前の早坂臨舵(旧姓・臨舵・リンダ・ベイカー)と貢は、平成九年四月にアメリカで再会する。そこで結婚。リンダの母のマリア・マリリン・ベイカーとリンダの姉のミリィ・アン・ベイカーと一緒に暮らしていた。アメリカでの生活の中、リンダと貢は二人の子供に恵まれた。平成十一年に女の子と男の子の双子が日にちを跨いで誕生した。三月三十一日に長女・海里、四月一日に長男・海斗。二人とも元気に育っていた。ただアメリカでは問題とされていなかったが、日本では学年の違いがある。そのことについては、二人とも了承してくれていた。貢はアメリカで教職に就いていた。そして初子(この頃、教頭になっていた)の紹介により、私立大和高等学園に赴任することになった。
 アメリカに残されたリンダの母のマリリンは、平成九年の六月にリンダの姉のアンが結婚したことにより、そちらに引き取られていた。二世帯で今も仲良く暮らしている。
 川合家の場合については、少し触れていたので、その話以外の部分とする。
 鴇と貢がどのように知り合ったかは気になるところではあるが別にして、鴇は母の宮子と一緒に京都に帰って来たところから話は始まる。この頃の鴇は電気関係の会社に勤めており転勤となったのである。宮子は内職をしており、二人で力を合わせて生活を支えていた。平成六年四月に鴇の職場に君子が入社してきた。これがこの二人の出会いとなる。それから二人の付き合いが始まり、三年後の平成九年四月に結婚した。そしてメゾンタウンに引っ越してきたのである。君子は母の宮子も一緒にそこに住むことに賛成してくれた。嫁と姑争いもなく平和に過ごす毎日を送ってきたのである。そんな中、平成十年九月に長男の未来が誕生した。実は鴇には大きな悩みがあった。彼は自分が父親に育てられた経験がなく、未来に対しては、どうしても子煩悩になってしまうのである。だから、甘やかしすぎたとも思えてならなかった。そんな彼の思いを君子は察してくれていて、未来に対して厳しい母親になってくれていたのである。鴇はそんな彼女にいつも感謝をしていた。
 整理もついたところで、二〇一五年六月二十日の爽やかな朝の一幕と締めくくろう。



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