三八

文字数 3,218文字


 演劇部の活動再開の前に一つ乗り越えなければならない山がある。それは一学期末考査だ。
 窓の外は雨が降り注いでいた。これまでの騒ぎが嘘のように、とても静かな時間であった。
 それを嵐の前の静けさとも云う。でも、今は静かにしてくれ。
 俺は月曜日からの一学期末考査の試験勉強に励んでいるのだ。
 場所は清川屋台荘、海里や海斗とは少し離れた場所にいる。
(あいつらも今、俺と一緒で試験勉強しているのかな…)と、俺はふとあの二人のことを気にかけた。
 その時だった。チャイムが鳴り響いた。
「少し、お待ち下さい」と、俺は玄関のドアを開けた。
「川合君、久しぶりね」
「お前は、妙子じゃないか。…いや、妙子さんと呼ぶべきだな」
「妙子でいいよ」
「久しぶりだね。それより、どうしたんだ?」
「実はあなたのお父さんの家を教えてほしいのよ」
「親父の家…?」
「この人が、あなたのお父さんに会いたいそうなの」
 俺は妙子の言うこの人と顔を合わせた。俺自身は初めて会う人だった。
「妙子、この人は?」
「あたしの兄なの」
「初めまして、川合未来君ですね。わたしは佐藤守と言います」
「あの、父とはどういう関係なのでしょう?」と、俺は思わず自分に似合わない口調で質問していた。
「私はあなたのお父さんにサッカーのチームに入れて貰いたいのです…」
「あっ、そういうことでしたら、父は喜ぶと思いますよ」
 そして俺は妙子と佐藤守さんを連れて、親父のいるメゾンタウンに連れて行った。
「ところで妙子、どうして親父がサッカーチームを作っているって知ってたんだ?」
「あたし、兄と一緒に、あることを相談しに行った時に、主人のお母さんが教えてくれたの」
「あ、そうか。親父は初子先生の教え子だったな」と、そう納得した時、俺たちはメゾンタウンの九棟に到着した。
 すると、九棟の前でうろうろとしている年配の女性を見かけた。その女性は誰かを訪ねに来たようにも見える。
「母さん」と、妙子と守さんは一緒にその女性に声をかけた。
(妙子のお母さん?)何か複雑なことになりそうだ。と、俺は薄々と感じていた。
「母さん、どうしたの?」と、妙子は聞いた。
「あっ、妙子に守。母さんは早坂さんを訪ねに来たのよ」と、その人は言った。
「おばさん、早坂さんなら僕たちが行こうとしている家の向かいですよ」と、俺はまたまた似合わない口調で言った。
「あの…あなたは?」
「あっ、僕ですか。川合未来と言います。妙子さんと守さんを僕の父の家に案内していました。それではおばさんも案内しますので、僕たちと一緒に付いてきて下さい」
「ありがとう」
 そして、おばさんを早坂さんのいる二〇一号室の玄関まで送ると同時に、俺は親父のいる二〇二号室のチャイムを鳴らした。すると、お袋が出てきた。「未来、この人たちは?」と、お袋はやはり聞くことになった。
「佐藤守さんと佐藤…じゃなくて、北川妙子さん。親父に用事があるみたいなんだ」
「あなた、お客さんよ」とお袋は親父に声をかけた。
「リビングに上がって貰って」と中から親父の声が聞こえてきた。
 妙子と守さんは中に入り、そのままリビングに向かって行った。
「未来も入る?」
「あっ、俺はいいよ。早坂さんに用事があるから」
「そう。また家に帰って来るんでしょ」
「ああ、また帰って来るよ」
 お袋とのこの会話のことだけど、俺は近いうちに実家に戻ることになった。つまり清川屋台荘を出ることになったのだ。予定では八月二十六日からの夏休みの残りを利用して荷物を運ぶことにしている。現在、親父の会社の経営は苦しいとのことで、清川屋台荘の家賃の支払いに困っているそうだ。そこで親父に協力を求められたというわけだ。
 俺としては何とかそれに応えたい。と、思った時、海里のことを思い出した。そこでの行動はただ一つ、俺は迷うことなく早坂家の玄関のチャイムを押していた。しかし、押した後で、俺は思った。
(あっ、しまった。今、お客さんが来ていたんだ)と、思うのも束の間、早坂家の玄関のドアが開いた。
「あっ、未来君」と、玄関のドアを開けたのは海里だった。
「ごめん。今、お客さんいたんだよな?」
「いいよ、上がって。わたしの部屋なら大丈夫だから」と、海里は俺の手を掴んで部屋まで連れて行った。
 俺は海里に連れられて部屋に入った。正直、女の子の部屋に入ったのは初めてなので緊張する。
「お茶を入れて来るから待ててね」
「あ、ああ…」と、俺は一人、部屋に残された。
 しかしながら、女の子の部屋ってぬいぐるみとかがいっぱい置いてあるイメージが強かったのだが、その代わりに辞典類とかの書物やパソコンが置いてあった。イメージ的には文学少女の部屋だった。でも、まだ整理されていないダンボール類もいくつか置いてあった。まあ、引っ越してきたばかりで整理の途中なのだろうと思った。
「お待たせ」と、海里が戻って来て簡易テーブルの上にお茶を置いた。俺たちは向かい合わせに座った。
「ところで、海里。俺に何か用事があったのか?」と、ようやく本題に入った。
「うん、未来君に勉強を教えてほしいの」と、海里は国語の教科書を出してわからないところのページを開いた。
「あ、そういうことか。まあ、俺でわかることなら教えてやるよ」と、俺はそのページに目を通し始めた。
 すると、海里は頬杖つきながら俺の顔をじっと見つめていた。(…?)と、俺は思っていた。
「ねえ、未来君」と、暫くしてから海里が話しかけてきた。
「何だい?」
「…小学一年生の春頃だったかな。とてもおとなしい女の子がいたの。その子、英語は喋れたけど、日本語が少ししか喋れなくて…言葉の壁があったのね。友達ができなかったの。でも、ある男の子が一緒に遊んでくれたの」
「…それで、その二人はどうなったんだい?」
「その女の子は初めて友達ができて喜んでいた。でも、半年くらいだったかな。その女の子は引っ越しにすることになったの。その男の子をさよならすることがいやで泣いていた。それで、その男の子はぬいぐるみをプレゼントしてくれたの。そのぬいぐるみは今も大切にされていて、その女の子のそばにいるの」
 すると、海里が座っている隣に五十センチ程の高さのスヌーピーのぬいぐるみが置いてあった。
「その女の子は、今は、おとなしいどころか、お転婆になりました。冗談を言っては人を笑わせています」
「…えっ?」と、海里は驚いた。
「そして、その男の子は、今、その女の子と一緒に勉強をしています。その前に一言、言わなければなりません」
「み、未来君?」
「海ちゃん、おかえりなさい。とね」
「た、ただいま。みーくん」と、海里はあの頃のニックネームで呼んでくれた。
「やっぱり海ちゃんだったんだね」
「未来君…どこでわたしだってわかったの?」
「そのぬいぐるみ。俺が女の子に初めてプレゼントしたものだから…。大切に持ててくれたんだね」
「うん、寝る時はいつも一緒なの。…でも、わたしも君がみーくんということにやっと気が付いたのよ」
「じゃあ、海里。お前はどこで俺だということに気が付いたんだ?」
「君とキスをした時。あの時ははっきりではなかったのだけど、今日、君の顔を見ているうちにね」
「…でも、驚いたよ。また会えるなんて」
「わたしも」
 その話で二人が盛り上がっているところ、部屋のドアがガラッと開いた。二人はギクッとなった。
「あっ、未来君。こんにちは」と、ドアと開けたのはリンダさんだった。
「おばさん、こんにちは」
「ママ、未来君はわたしの勉強を見てくれているの」
「未来君、あなたも勉強があるのに、海里のためにありがとう」
「いいえ、僕の方も海里さんに勉強を教えて貰っていますので、お構いなく」
「あらあら、二人とも仲がいいのね」
 俺たちは照れながら笑っていた。そして、いつの間にか早坂家を訪ねて来たおばさんは帰っていた。
 リンダさんは、そのおばさんを見送ったそうだ。しかしながら、そのおばさんは誰だったのだろう。



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