四一
文字数 3,805文字
台風九号の接近により、わたしたちは予定より一日早い一学期の終業式を迎えていた。
わたしはまだ頬の腫れが少し残っていて、未来君も顔に少し痣を残していた。お互いの顔を見ると、あの事件のことを思い出すどころか、大爆笑のネタになっていた。…そう言えば、昨日も病院で顔を合わせた時も同じだったなあ。
「お前、何だ。その顔は」
「君こそ、笑わさないで」
まあ、こんな調子なの。でも、思えば、無意識のうちに誰も傷つけたくないからだったのかもしれない。
顔に煙草の火を押し付けられなかったから、約束通りに、あの事件のことは忘れてあげるようにしたい。
この辺で、お話は次に進めて行きましょう。
台風九号の接近を前日に控えたその夜、未来パパ(鴇さん)が早坂家を訪ねて来た。どうやらパパに話があるようだ。
二人はリビングに移動して話をしていた。わたしは自分の部屋にいた。二人の会話で聞こえてきたことは、以前に早坂家を訪ねに来られたおばさんの名前が、佐藤芽衣子さんということだった。後は、その人がパパと何か関係があるらしいということだけで、詳しい内容はわからなかった。そう言えは、未来君が佐藤芽衣子さんのことを気にしていたみたいだから、また教えてあげるとしよう。(そういえば、未来君、どうしているかな…)と、ふと思っていた。
日が変わって、七月十七日。目を覚ませば、窓の外はまだ暗かった。
立ち上がる時、わたしはカーテンを引き裂くかのように完全に開け放ち、変わらない夜空をその瞳に映した。
脚を広げる時、わたしはカーテンを引き裂くかのように完全に開け放ち、ベランダにその両足を踏み入れた。
湿った風が流れる中、一人ベランダに立ち続けていた。一体どれくらいの時間が流れたことだろうか。それは短い時間だろうか、それとも長い時間なのだろうか。夜霧を裂いて月の光が届いてきたのは…。
夜更けのベランダ。わたしの瞳に、夜空に冴える月が映し出された。
でも、それは、儚い光なのかもしれない…。
風の中、わたしは過ぎ去った声を聞いた。その響きが、わたしを釘付けにしていた。
天と地は逆になり、血は引いて凍りつき、空気は暑苦しくなって、心は乾いていた。
まるで針地獄を連想するような、そんな感じである。
―この時、わたしのその心はスキャットをしていた。
ジャズで意味のない音を発して歌うことをスキャットと云うが…。
このテンションのリズムはジャズで、わたしはここで音の代わりにイメージを発して歌っていた。
夜更けのスキャット。わたしの内は激しく騒いでいた。
そして、わたしは風の中で、まだ言葉にすることのできない沢山の考え事をしている。
学校生活のこと。演劇部の活動のこと。一歩一歩を確実に歩んでいる人生のことを…。
そして、未来君のこと…。
わたしにとって大切な何かがあることは間違いないけれど、そのことによって、わたしがどうなっていくのかは、今のところ全く見当がつかない。少なくとも、この夏の季節で、わたし自身が大きく変わっていくような気がする。
あの日、未来君と唇を合わせた感触が忘れられずに、心臓の鼓動はまだドキドキと激しく脈打っている。
夜が明けて朝となったならば必ず会える未来君だけど、離れている時間がとても長く感じられる。今すぐにでも未来君に会いたいと思う気持ちから、胸は苦しく、ため息をつき、瞳は潤んで涙が止まらなくなった。
(やだ。止まらないなんて…)
気が付けば空は明るくなってきた。すると雨が降り出してきて激しくなってきた。わたしは部屋の中に入った。
そして、輝ける太陽は伝説の中に…。
雨雲によって太陽の光が遮られている今日、わたしは何故かある境の場所にいるような気がした。
何の境の場所にいるのかは、まだ言葉にできないけれど…。
それを演出するかのように、雷が鳴り響いた。実のところ、わたしは雷の音はとても苦手だった。
そこで、わたしはパソコンを開けて脚本の続きに集中することにした。それからは、わたしの髪で被われた耳に聞こえてくるものは、キーボードを速やかに弾く音ではなくて、窓の外から鳴り響く雨の音だけであった。その雨の音は出会ったことのない激しきリズムを奏でていた。ここでもまた、短い時間か、または長い時間だったかはわからないが、いつしか雨の音のリズムは静かになった。脚本の方も進んでいた。七月末までには脚本が仕上がるような勢いだった。
パソコンの画面から目を離したわたしは、雨降りの灰色の空を窓越しに見るのであった。
昼間は太陽の光、夜は月の光、今のわたしはそれを求めている。
わずかな隙間さえも与えられずに、閉ざされた一人ぼっちの部屋の真ん中で、薄暗い外の光に照らされながら、両手で膝を抱え、うつむいて座っていたわたしは、重々しくその顔を上げて、雨雲に太陽の光が遮られている朝の空を、両方のその瞳をもって映し出していた。その様は、正に今の自分の心の色を表現しているかのようだった。
窓越しに空があるように、自分の心の中にも空があるのだと思える。風が吹きつけているのか、雨が降り続けているのか、雷が鳴り響いているのだろうか。だけど、その空の…いや、心の中の暗雲を裂いて、太陽の光を差し込ませるのは自分次第なのだと悟れる。そのことで悩めるわたしは、自分の頭の中の整理ができずにいた。
そこで、わたしが今、相談したい相手は、恐らくパパでもなければ、未来君でもない。ママだと思う。もしも、この悩みを打ち明けるとすれば、男性には理解できないことが多いのかもしれない。特に、女性の悩みは…。
そんなことを、わたしはいつの間にか、思っていた。
暫くしてから部屋の方に視線を向けると、扉が開け放たれた高い位置にある押入れから段ボール箱が半分以上飛び出していた。その段ボール箱は押入れに一先ず上げただけで整理中のようだった。わたしはその段ボール箱を完全に押入れの中へ入れるために、椅子の上に乗ろうとしたが、足を踏み外して背中から畳の上に激しく転んだ。
すると転んだ時の振動により、今度は箪笥の上に置いてあった段ボール箱が、わたしの頭部をめがけて落ちて来た。
その段ボール箱に中身が入っていることは言うまでもない。それがまともにあたったら大怪我することは間違いない。
叫ぶ余裕も与えられず、わたしは慌てて四つん這いになり、両手を頭の上に置き、目を閉じて歯を食いしばった。その段ボール箱の下に置いてあったものは形を崩しており、荷崩れの原因になっていた。如何にその段ボール箱が重かったかを物語っている。実のところ、状況を説明している暇もなく一瞬で、その段ボール箱は落下していた。
意外にも大きな物音はなかった。わたしは自分の体に痛みがないことを知って顔をゆっくり上げれば、目の前には中身を吐き出して崩れている段ボール箱があった。もはやそれは段ボール箱とは呼べなくなっていた。
言葉を持って表現すれば、グシャッという程、見事な崩れ方だった。
わたしはその崩れた段ボール箱の前に正座をした。視線はその崩れた段ボール箱から吐き出されている中身にあった。
中身は、五千枚くらいの手書きをされている原稿用紙だった。
その原稿用紙を書いた人物は筆跡を見れば、すぐに誰かがわかった。
でも、問題はその原稿用紙に書かれてある内容にある。しかも、恐らくすべて日本語で書かれてある。
わたしは、その原稿用紙を一枚一枚と拾い上げながら目を通していった。すると、その内容は、わたしが一番よく知っている物語だった。わたしは言葉を失い…大きなショックを受けた。
膝の上には、涙と一緒に一枚のメモ用紙が落ちてきた。すぐにそのメモ用紙を拾い上げて両目に映した。
そのメモ用紙に書かれてあることを黙読した時、更にショックは大きくなった。
そのメモ用紙は、どうやら湿気で原稿用紙の裏にへばりついていたようだった。メモ用紙が湿気でへばりついていたのは、きっと、この物語を書いた人の涙でそうなったのだろう。涙で綴った文字が、ぼやけて見にくいのは、わたしの涙のせいだった。そして、窓から見た外の景色は少し晴れてきた。わたしは涙を拭って大きな声を上げた。
「ママ!」
すると、ママは部屋の扉を開けた。わたしはママと顔を合わせた。
「海里、どうしたの?」と、ママは驚いていた。それもそのはずだった。まず段ボール箱が崩れており、その中身の原稿用紙が散乱していた。それを目の前にしてペタンと座っているわたし。押入れの前で転がっている椅子。開いたままになっているパソコン。それらの光景が一度にママの目に入ったわけだ。
「ママ、この原稿用紙に書かれてあるものって、もしかして…」
「そう、Traditional of the sun太陽の伝説…」
「じゃあ、著者の佐倉歩実さんは、ママのことなの?」
「あなたの思っている通りよ。…ママのtime capsuleを見つけたのね」
「ママは…ずっとわたしに黙っていたんだ…」と、わたしは涙を零していた。
「か、海里…?」
「…ショックだった。わたしにとっては大切なことだったのに…」
「海里、ママはね…」
「もういいよ!ママなんて大嫌いだ!」と、わたしはそのまま家を飛び出した。
雨の中を、わたしは泣きながら走っていた。そして、わたしの心の中の雨もまだ止みそうになかった。