二章六節 レインボーフラッグ(三)

文字数 1,770文字

 脱衣所を抜けると、浴室は果たして彼女の言った通り、人っこ一人いない、なんとも不思議な空間となっていた。
 私は多少不気味に思いながら、まずはと手前のカランに腰を掛ける。すると奥の湯船から、魅惑的な香りが鼻腔をくすぐった。あぁ、菊の花か。誘われるように、無意識にその漂う先に視線を向けると。
「わぁ……」
 そこには、うっすらと開いた湯気抜きの窓越しに、陰りを帯びた秋の陽が、浴槽を優しく茜色に染め上げていた。
 折しもそんな大パノラマに呼応するかのように、外から微かにトラックのエンジン音が響き渡った。
 私はあまりにも美しい光景を見た人間がそうであるかのように、自然と感嘆の声が漏れ、暫く動けずにいた。
 と同時にこの時の私は、日常の中に潜む大胆で刹那的な美に、目じりから涙が零れて止まなかった。
 あぁ、私やっぱりかなり滅入っていたんだな。ややあり、私は吹っ切れたように、清潔な冷水で顔を洗うと、日中頭を悩ませていた今後の自身の道筋も、先程の休憩所の一件ですらも一瞬忘れ、夢中になって身を清めた。

 菊の湯船を堪能し、露天風呂やジェット風呂にものんびり浸かると、時はあっという間に小一時間が経ってしまっていた。
 先程おしゃべりに興じていた叔母さん方が浴場へと現れるや、私は咄嗟に我に帰り、慌てて脱衣所へと駆け戻る。
「お待たせしました――」
 持参した清潔感のある衣服へと着替え、急いで引き戸を開けると、予想に反し、休憩所には青年が一人、ゆっくりと机上の片付けを進めていた。
「あぁ……どうでしたか、菊の湯船は? 麻里江さんには、菊の香りが強すぎるって、先程苦言を呈されましたが」
「いえ……そんなことは無いと思います! 本当に気持ちのいいお風呂で……あと凄く幻想的でした」
「幻想……そうか、この時間帯なら、きっと――」
 青年は、私の顔をちらりと見つめると、そのまま外の夕陽を眺める。私はそんな朴訥とした彼を呆然と見とれながら、そっと元居た席へと腰掛ける。
「あ! 珈琲牛乳。しかも雪印の! 懐かしい、私昔紙パックのやつをよく飲んでいました!」
 と、すっかり片付けの済まされたスペースには、冷えた未開封の瓶がちょこんと二本置かれていた。
「美味しいですよね。それね……もしよろしければ、お風呂上りに一本どうかなって……あ、お代は全然、結構です! 罪滅ぼし……というには、あまりにも安すぎるか」
「え、私そんなつもりで言った訳じゃ! 罪滅ぼしって……先程の一件ですか? 全然、私気にしていませんよ……それより由紀菜さんや瑞希さんは?」
 すまなそうに頭を掻く青年に、私は恐縮しながら、ふと室内を見渡す。
 テレビの下では麻里江さんが、何名かの老人と世間話に興じ、番台では千恵さんが熱心にそろばんを弾いている。
 しかしどうやら私が入浴している小一時間で、室内の利用客はめっきりと減ったようだ。
「あぁ、彼女たちなら、先程帰りました。なんでも由紀菜の、担当作家が入院したとかで、急に対応を迫られるようになったらしくて」
「担当作家……あぁ、出版社で働いていると言っていましたものね……そっか、私てっきり彼女たちの気分を害してしまったとばかり……」
「そんなことないです。むしろ、由紀菜には『あけびちゃんに、一言申し訳ないと伝えておいて!』と寂しそうに釘を刺されましたよ……それより先程の一件は本当に、安直に事情を話さない、僕が悪かった。瑞希にも、過去にそれで苦しい思いをしたにもかかわらず――」
 彼はそこで咄嗟に臍を嚙むと、ハッとした顔で「すいません、急に声を荒げてしまい」と神妙に頭を下げた。
「いえ……それより、LGBT……ですっけ? その……もしよろしければ、詳細を私に教えていただけますか。私、本当に全く知識が無くて……彼女たちを傷つけたくないんです」
 私の覚悟を決めた表情に、青年は暫く私の顔をじっと見つめる。しかしすぐに「もちろん」と優しく微笑み返し、
「ありがとう。ちなみに改めてだけど、僕の名前は辻無博人。おばあちゃんのお手伝いで、浜田湯の番頭を務めると共に、Xジェンダーの当事者として、性的マイノリティーの人々の周囲への理解と共感に勤しんでいる……これから伝える話は少し長くなると思うけど、そんなに構えず、珈琲牛乳飲みながら、肩の力を抜いて聞いて貰えると助かるかな」
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