二章八節 レインボーフラッグ(五) 

文字数 2,073文字

 こうして高二の春、僕は図らずも、長年暮らした群馬の地を離れ、ここ東京江古田で暮らすこととなった。
 五年前に亡くなったおじいちゃん〈正さん〉は、昔気質の性格だったけど、僕を実の孫のように可愛がってくれた。高校卒業までの学費の一部を肩代わりしてくれたし、後、年に数回か、銭湯が休業の日なんかは、おばあちゃんと三人で、郊外までドライブにも連れ出してくれたりした(その際帰り際に、近所の総菜屋でハムカツを買うのが、僕たちにとってお決まりのルールだったんだ)。
 でもそんな彼にも、僕は最後まで、本当の自分を告げることは出来なかった。
 と言うのも、この頃になって僕はネットの知識を通して、自分が〝バイセクシュアルのXジェンダー(両性)〟にあたるのではないかと、漸く自覚するように至った。

自分のことを男でも女でもあると性自認する人は、一般的に『両性』と呼ばれる。これはXジェンダーの人々の、一つの性同一性区分である。

 Xジェンダーのサイトの文面を読んだ時、僕は思わず何年間も半透明だった自分が、初めて社会からあるべき人として迎えられたようで、溢れる涙が夜通し止まらなかった。
 自分の中の「性自認」「性的指向」が定まったことに加え、新しい高校〈草鷺高校〉は、都内の高校らしく多様性に富んでおり、僕が数名の友人に自身の〝性〟をカミングアウトした時も、彼らは面白がるでも否定するでもなく、そういう存在だと尊重しつつ、変わらず普通に接してくれた。
 案外、少なくとも東京という世界は、僕を寛容に受け入れてくれるのではないか。初めて、その手の理解のある友人と新宿二丁目を訪れた帰り、僕は意を決して、祖父母にも自身の性を打ち明ける覚悟を決めた。

 降りそぼる雨の中、帰宅すると、たまたまその日は銭湯の定休日で、祖父はビール片手に、珍しくテレビのバラエティーに見入っていた。
 最近話題の芸人がMCとして、その道の人々と赤裸々に本音を語り合うというトーク番組。
 二人に伝えるのは、夕食の席にでもするか。そう二階へ上がりかけたところで、件のMCがひと際甲高い調子で、こう叫ぶ声が聞こえた。
「それでは、性的マイノリティー特集も後半に移りまして。引き続きLGBTの皆さん、よろしくお願いします!」
 僕はそれを耳にした瞬間、心臓の鼓動が一挙に高鳴った。咄嗟に襖を開けると、驚いた彼の顔も気にせず、縋るようにテレビの画面を見つめていた。
「お、なんだ博人、挨拶もせんと……これなぁ、面白いぞー! こいつ、男の癖して、自分は生まれながらに女性なんだとこきやがる」
 赤らんだ顔のまま、物珍しそうに後ろを指差す彼の先には、茶髪の編み込みにフリルワンピースに見をやつしたトランスジェンダー女性が、ゲイカップルの発言に深く頷いている場面が映されていた。
「おじいちゃん……今なんて――」
 しかしそれよりも前に、彼の何気ない一言で、途端に足つく地面がぐらりと揺らいだように感じた。
「お? こいつ……って、博人? お前、どうした。顔色真っ青だぞ!」
 余程具合が悪そうに見えたのか、僕の表情を見るや、祖父は瞬く間に心配そうな顔を浮かべた。
「え、顔色。そうかな……」
 頬に手を当てた視界の端に、MCの真剣な眼差しが見えた。
 どうやら進行する番組自体、ひと昔前の〝好奇の対象〟のような構成ではなく、共感の空気が漂っているように思えた。
 けれども僕は一体、どこに存在しているのか。社会に認知されえているのか。かつてのあの浮遊性が、猛烈に自分へと襲い掛かってくる。
「違うんだよ……おじいちゃん……〝男の癖〟じゃなくってね……この方はれっきとしたトランス――」
 とりあえず説明しなきゃと口を開いた瞬間、不意に腹部から吐瀉物が込み上げてきた。慌てて口を手で押さえ、トイレに駆け込むと、先程二丁目のカフェで飲んだタピオカが、盛大に便器へとぶちまけられる。
「お、おい? 大丈夫か、どこか具合でも悪いのか!? ばあさん、胃薬! 博人、腹の調子が良くないようだ!」
 目の前の孫の豹変に、大きくトイレの戸を叩く彼の声音は、一抹の驚きと共に心配の色に溢れていた。僕は絞り出すように「大丈夫だから、気にしないで」と呟くも、そのまま数日、自室のベッドから動けなくなってしまった。
 結局、僕が日常を取り戻すのに、一週間以上の時間がかかることとなった。初夏の陽射しが眩しく感じる早朝、久々に居間に姿を現した時、祖父母はこれまでと変わらない態度で僕を迎えてくれた。
「おぉ、博人、おはよう。体調は大丈夫か、朝ごはん食べられそうかい?」
 そう食卓で笑みを浮かべる彼らの表情の奥底に、大きな安堵が浮かんでいることを僕は、見逃しはしなかった。
 これだけ多く、世話になっているのだ。それを自分のエゴで、彼らを傷つけてはならない。
 伝えるにしろ、徐々に理解を深めていってから。ふと卓上の料理に視線を向けると、ご飯と味噌汁の合間に、一枚のハムカツが置かれていた。僕は苦笑いでそれをかじると、改めて彼らには自身の〝性〟について、一度蓋をすることを決意した。
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