一章十五節 埼玉ピアノ音楽祭(八)

文字数 2,446文字


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 八月二四日、その日は秩父に来て初めての悪天候だった。朝から降りそぼる湿った雨に気落ちしながらも、それを上回る二人の心優しい先輩の励ましに、私は何とか気持ちを奮い立たせ、ティタローザの個別レッスン室へ向かった。
「失礼します……」
 ペンション最上階、数室のゲストルームの一番奥の部屋に入った瞬間、どこか懐かしい香りが鼻を突いた。実家の仏間から毎日漂った、いや違う、微かに香る、柑橘特有の爽やかさ。
「お香――」
「その通り。これは蜜柑のお香です。私の地元の、マンダリーノ畑を思い出させる、とっておきの一本です」
 お香の煙越しに、柔和な笑みを湛え、こちらに言葉を投げかける白髪の老人。それはテレビや雑誌で何度も目にした、まごうことなきイタリアが生んだ天才ピアニスト、カルロ・ティタローザであった。
「あ……えっと、はじめまして。小川あけびです。本日は、よろしくお願いします」
 世界屈指のピアノ演奏者を前に、途端に小刻みに足が震え出す。落ち着け、何を毒気に当てられているんだ。私は立ち位置を変え、なんとか震えを抑えようとするも、まるで高層ビルの屋上の縁に立っているかのように、膝から下の震えは止まらなかった。
「ふっ、随分と緊張していますね……小川さん、一度深呼吸してみてください! お香はリラックス効果もありますから、はい。吸ってー、吐いてー」
「は、はい。すいません……ふー」
 言われるまま、暫くゆっくり深呼吸を続けていると、嘘のように震えはぴたりと止んだ。私が面食らった顔を向けるや、彼は満足したようにニコリ微笑み、
「改めまして、こんにちは。カルロ・ティタローザです……小川あけびさんは、都立音楽大学。へぇ、一年生でこの音楽祭に!……いかがですか、この四日間は」
 彼はひと際大きな左手で手招きをすると、私に隣のピアノ椅子に座るよう促す。その自然な流れは、巨匠としての威厳は全く感じさせず。一人の老人が可愛い孫にピアノの稽古をつける、そんな雰囲気に近かった。
「いえ、全然ですよ。この四日間で、同門の先輩はおろか、周りの音大生との差を痛感していますし。それに一昨日から教わっている石前先生からも、どうやら落第のレッテルを張られてしまったみたいで」
 私は苦笑いで、気づけばティタローザを相手に、この数日のモヤモヤを吐き出してしまっていた。
「あぁ、石前君のレッスンを受けているのですね。彼なら、私も知っています。随分不器用な男です。でもあぁ見えて、教え子のことは人一倍考えていますから、決して変に捉えないでください」
 彼は心底同情するとばかりに、そう話すと、「でははじめましょうか」とふんわりとした空気のまま、私に課題曲を弾くよう促した。
「はい。よろしくお願いします!」
 私はピアノ椅子の高さを調整すると、白と黒のコントラストの艶やかな鍵盤に手を添える。
 既に何十回と練習した、ラヴェルの組曲、「鏡」より「海原の小舟」。
 冒頭の美しいアルペジオと漂うような旋律は、私の中で海原に浮かぶ一艘の丸木舟を想起させる。
 港町を出奔した丸木舟に乗る一人の男は、豊漁を胸に波間をたゆとう。やがて穏やかさに満ち溢れていた海原は、時の経過とともに、徐々にその本性をゆっくりと露にしていく。
 転調。鋭いトレモロ(和音を小刻みに交互に演奏する方法)と激しいアルペジオは、舟全体にぶつかる波濤だ。波が荒くなってきた、一旦沖へと戻ろう。男が港町へと舵を切った瞬間、一つの大波が襲い掛かり、瞬く間に小舟を呑み込み。
 気づけば舟は、男が初めて見る未知なる海を漂っていた。静謐でどこか既視感がある、それでいて浮世離れした神秘的な海。ふと水面に目を向ければ、身振りの良い鯛やフグが群れをなしていた。興奮した男は、すかさず網を水面に投げ入れ、忽ち水槽は収穫した魚で一杯に。でも水槽を泳ぐ魚はどれも、普段目にする魚とは若干色形が異なっているということに、男は全く気付いていない。
 推移部。同一音型の短七和音で、緊張感を表現する。無事にその日の漁を終え、満足した顔で男が海原に目を向けると、視界の先に靄のかかった小さな島が見えた。
 そういえばここは一体、どこなのだ。再び不安に苛まれた男は、情報を求めるべく、険しい顔で島へと近づく。はたして島の桟橋まで近づいたところで、一人の老女が静かに佇んでいることに気づく。
 彼女は豊漁を喜ぶと同時に、男が無理をして海の仕事を続けていることに、どこか寂し気な顔を浮かべていた。「気ぃ、張りすぎてないかい」老女の労りの言葉に、胸が締め付けられたのとほぼ同時だった。目の前に閃光が走り、視界は再び眩い景色に覆われ。
 男が目を覚ますと、舟はいつもの見慣れた海を静かに揺蕩っていた。無数の波ですっかりずぶ濡れになった船内。空になった水槽。今見ていたのは夢? 改めて網の準備をする男の後ろで、微かに一匹のシロアマダイが小さく横たわっていた。
 私は最後の一音をそっと弾き終える。これが私の全力だった。大西洋の大海原でもフランスの運河でも無い、地元の半島の漁船の物語。
「へぇ。まさかこの曲を、日本の漁師を思い浮かべて弾いた人は初めてだよ。いいんじゃない? 自然の流れに翻弄される人間のおかしさ、弱さを表現しているという意味では、実に本質をついていると思う」
 演奏後、軽い問答を終えると、ティタローザは面白いものでも見聞きしたように、感嘆しながら両腕を伸ばす。
「小川さん、やっぱり木谷先生が見込んだだけはありますね。奏法やテクニックは見事ですし、それを踏まえた上での独特な解釈と演奏表現は実に興味深い。いくつかの課題を克服すれば、まだまだ十分、向上する余地はあると思います」
 彼はそう述べると、今後を踏まえてとした上で、いくつか気になった点を、要所要所じっくりと指摘してくれた。私は興奮冷めやらぬ顔で、すかさず楽譜にメモを走らせ、修正した音を何度も紡ぐ。気づけばレッスン時間の二時間は、あっという間に終わりを迎えた。
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