二章一節 埼玉ピアノ音楽祭(後日譚)

文字数 2,119文字

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 涼感を帯びた秋の風に、つと、まどろみから目が覚める。薄ぼんやりとした視界から広がる見慣れた部屋は、茜色の陽が射し込み、一面真っ赤に覆われていた。
 私は、気怠げにソファから身体を起こすと、フローリングの床に落ちた楽譜を拾い上げる。
 あぁ、譜読みをしている途中で、また眠ってしまったのか。私は塵積もる罪悪感に溜息をつきながら、部屋の隅に積まれた土産袋を眺める。秩父から帰って一週間、そろそろ気持ちを切り替え、次なるステップに邁進していかねば。

 ティタローザのレッスンが終わると、私は息つく暇も無く、そのまま半日かけ、翌日の披露会の練習にみっちりと打ち込んだ。
 披露会当日、私は過去の自分との決別という意味を込め、極めてテンポよく『黒鍵のエチュード』を披露した。
 それはリズミカルな音色を重視した結果、何度も音は外れ、極めて凡庸な演奏と言う他無かった。
 それでも上気した顔のまま、即席のステージから客席を眺めると、三人の生徒の後ろで石前講師は、猫目をカッと見開き、やや驚嘆したように何度も満足そうに頷き続けていた。
 冬の関西学生ピアノコンクールの切符は、緊張した永田の大失敗で、あっさりと根本がものにした。しかし私はある種、やり切ったという心情のまま、自室に帰ると、そこには一足先に全レッスンを終了した二人の先輩が、すっかりリラックスした表情で思い思いの時を過ごしていた。
「おぉ、小川さんお疲れー。あ、丁度いいところに戻って来た! さっき笹川先輩が、小川さんが帰ってきたら、私たちに話したいことがあるんだって」
 テレビの電源を消し、ベッドから起き上がる大内さんの後ろで、笹川先輩は「別に大した話じゃないんだけどね」と文庫本を置き、いつもの籐椅子からゆったり腰を上げる。
 伝えたいことというのは、一昨日の夜、口にしかけた話か。何事かと視線を向ける私たちに、彼女は珍しくやや言いよどんでいたが、それでも意を決したとばかりに、あのねと口を開き、
「私……この冬、ハインリヒ先生の推薦で、ドイツのコンクールに出場することになったんだ。『あなたを弟子として認めるかどうかは、そのコンクールの結果を見て判断します』って、昨日のレッスンで唐突に言われて」
「わぁ、それは、おめでとうございます! でも、あれ? 先輩。確かハインリヒ先生には先日弟子入りを断られたんじゃ――」
 首を傾げる大内先輩をすり抜け、私は咄嗟に駆けていた。目の前まで迫り、ややびっくりした彼女を、その時の私は一切気にする余裕も無く、
「先輩……おめでとうございます!……良かった。念願の弟子入りに、漸く大きく、近づくことが出来たのですね――」
 私は正面から微かに薫る、彼女の芳香に一瞬クラリと揺らぐ。
 それは合宿初日、池袋での雑踏を寄せ付けない浮世離れした彼女と、またつい先日共に星空を眺めた、脆く儚げな少女のような彼女と、全く同じ香だった。
 冷静に、それでも溢れる思いを隠し切れずに喜ぶ私に、笹川先輩は心底驚いたとばかりに、切れ長の目を何度も瞬かせた。
「小川さん……馬鹿ね、まだ何も始まってないのに! むしろレベルの高いドイツのコンサートで見事挫折させ、完全に弟子の線を切ってやろうという彼の魂胆かもしれないじゃないの!」
 彼女はコロコロと笑うと「でも、小川さん、ありがとう。あの晩、あなたがいたおかげよ。私がもう一皮剝くことが出来たのは」と声のトーンを一つ落とし、絡みつくように私にそう小さく囁いた。
「えっ?」
 キョトンとする私の背後から、大内さんが「いやぁ、先輩だけですね。この音楽祭で、次に繋がるアプローチを掴むことが出来たのは」とやや臍を嚙むように、道化じみた声を発する。
「何言ってんの! きっかけを掴むのは、何もこの音楽祭だけじゃない。それに二人もティタローザ先生や北先生、石前先生から有益なアドバイスをいただいたのでしょ。あとはそれをどう今後に活かしていくか。それは私自身もまだまだ課題……」
 こうして埼玉ピアノ音楽祭は、私たちに深い足跡を残し、無事終焉を迎えた。
 帰り際、木谷先生の運転する車窓から、この世を覆い隠す真っ赤な夕陽が、ゆっくりと沈みかけていた。
 私はそれを暫し眺めると、手元のスマホの画面に視線を下ろす。帰り際に挨拶出来なかった森下さんに、お別れのLINEを入れたものの、相変わらず既読こそつけ、一向に返信が来ることは無かった。
〝そうだよ。私も高校卒業後も、夢を追い続けて、東京の音大でピアノを続けている〟
 違う、もういい。もう一度原点に返らなくては。私にとってピアノを弾く意義とは。ピアノはなおも私の人生に必要たるのか。
 隣からは大内さんの気持ちよさげな寝息が聞こえる。その一方目前では木谷先生と笹川先輩が、先程からラグタイム音楽について何やら大激論を交わしていた。
 その合間から流れているのは、奇しくもあの夜と同じ、極めて陽気なアメリカンポップなジャズの音だった。
 私はこの音楽祭を通し、一つの意志を変えた。ではそのために何を捨て、また新たに何を掴まねばならないのか。徐々に薄暗くなる山間の木々をよそに、私は新たな決意と揺らぐ思いを胸に、帰京した。
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