五章五節 即興曲 FP63 第1番~第10番(五)

文字数 2,553文字


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「三浦君、それに宮本君も今日は来てくれてありがとうね。散々、門下演奏会で披露しているはずなんだけど、二人がいることで今日はめちゃくちゃ緊張した」
 楽屋で着替えを済ませ、再び会場に戻ると、場内は演奏前と変わらず、既に雑多な喧騒に満ちていた。
「いやいや、俺たちが、じゃなくて木谷先生がでしょ。あの人が個人の、しかもこういった私的な場に来ること自体、珍しい訳なんだし。それだけ小川のこと期待している証だよ」
「え、そうなんですか! でも、先日の俺のジョイントコンサートにも先生、来てくれましたよ! 『演奏が独りよがりすぎる』って、終始小言を言われまくりましたが」
「お前は、一個下の代でもとりわけ特別だからいいんだよ。というか、注文したグラタンのミニトマト残すな、もったいない」
 宮本君の素の驚きに、三浦君が苦言を呈すと、彼は悪びれもせず、「いや、グラタンにミニトマトは訳わかんないですよ。先輩良ければ食べます?」と無邪気にすっと皿を差し出す。
「馬鹿、なんで、お前の食い残しを俺が食べるんだよ! というか小川、木谷先生何か言ってた? ずっと隣にいたんだけど、相変わらず、その真意は掴めなかった」
 奔放な後輩への嫌悪を緩めた、彼の同期に対する心配と、それでいて僅かながらの探りの入った視線に、私は「いや、詳細はまた学内で、だそうです」と苦笑いを浮かべる。
 直前、楽屋を出るや、まさに橋本さんにお会計を済ませる先生の背を私は追っていた。「木谷先生!」声をかけると彼は、「あぁ、小川さん」と変わらぬ微笑を湛えたまま、
「お疲れ様でした。うん、色々と出せるもん出せたんじゃないですか。技術的にはまだまだですが、総じて良い音色でした」
 そう述べる彼の丸眼鏡の眼差しの奥には、労りの笑みとやはり厳しい視線が向けられていた。
「出せるもん出せ……ううん、先生、それでも私――」
「大丈夫。今回の件は、後日学内でじっくり話す時間を設けますから。とりあえず今日は、来客の皆さんと目いっぱい楽しみなさい」
 私もこの後は、一杯引っかけますかね。美味しいシャンパーニュでも飲みましょうか。
 いつもの飄々とした口調で、彼はタキシードの襟を正すと、心なしかその瞬間を楽しむように、ゆっくり出口へと去って行った。
「そっか、でも素晴らしい演奏だったよ。前の門下演奏会より心なしか一層――」
 と言いかけたところで、荷物をまとめ終えた繭が舞い戻ってくる。「あけびー、あんたパールのイヤリング、楽屋の机に置きっぱなしでしょー。後、片づけは私の方で済ませるから、お客さんへの挨拶回りをしなさいって言ったのに、なんでいつでも話せる同門としか喋ってないのよ!」
「あ、ごめん!……と、今日はご足労いただき、ありがとうございました。すいません、ご挨拶が遅くなってしまい――」
 彼女が目で促す先、私は慌てて身体を転じると、スタッフ数名と会話を交わす坊主頭の恰幅の良い男性に頭を下げた。
「ん? あぁ、いえ。非常に素晴らしい演奏でしたよ。まさかこのライブカフェで、僕の好きなプーランクピアノ即興曲を、これだけ丁寧に弾いてくれる奏者がいるなんて。大変素敵な時間でした」
 彼はそう述べると「こちらもご挨拶が遅れました、どうぞ」とワイシャツの胸ポケットから小さな紙片を差し出す。
「あ……っと、頂戴いたします」
 カウンターチェアに腰掛け、両手で受け取った名刺には、シンプルなデザインで『朝陽新聞文化部 宇野康哉』と記されていた。
「朝陽新聞……」
「それにしても橋本君との繋がりで、このライブカフェにはちょくちょく鑑賞しに来るんだけどねぇ。僕が来るようになって十年ぐらいか、プーランクを弾いた人は数いれど、FP六三をメインでもってきた人は、恐らく初めてだ」
「そうなんですね。いや、即興曲が好きだという人から、お褒めの言葉をいただき、本当に身に余る光栄です。ちなみに、差支えなければですが、楽器経験者だったりします?」
 一般大衆で、プーランクのピアノ即興曲が好きという人は、普通に考えて稀だ。余程の愛好家か、或いは経験者か。「どっちだと思う?」からかい口調を戒めるように、丁度配膳から戻ってきた橋本さんが冷めた声音で、
「宇野さん、現役学生ちゃんを困らせるようなことは言わないで下さい。でも、小川さん。彼、僕たちと同じ都音の先輩ですよ。専攻は僕と同じ弦楽器で、年齢も僕より三つ上――」
 そっと彼にギムレットを差し出す真横で、私は「すみません!」と咄嗟に頭を下げていた。
「失敬な、ただの質問じゃないか。まぁ俺は、都音は二年次に中退しているけどね……いや、全然。そんな話はともかく、それにしても今日は近年稀に見る、随分面白いリサイタルだったなぁ」
 小川さん……だっけ? 卒業後もピアノで食べていくつもりなの? カウンターから場内の客層を一巡しながら、ゆっくりと顎をさする彼の語に、私は「いえ、ピアノで食べていくつもりはありません」と即座に答える。
「本当は、ピアニストになるために都音に入ったんですが、その夢は一年次の夏で諦めました。ピアノに全力で打ち込むのはこの四年だけです。その四年間で、どれだけ内なるものを吐き出せるか、それさえ叶えば後は終わりです」
 自分でも驚く程、初対面の相手に豪語すると、途端に彼はその相好をぐしゃりと崩し、
「内なるものを吐き出す、フッ……ハハハッ、そうかっ! いやぁ、君、面白いねぇ! それじゃ、何かい。内なるものを吐き出したその先に、待ち受けているものとは一体なんなんだい?」
「それは――」
 と言いかけて、今回は口を噤む。最近一つの可能性として思い描いている未来は、まだ他人には話せる代物ではない。しかし彼は予期していたとばかりに、再び社会人が在学生に向ける、幾分労りの籠った声音で、
「意地悪なこと言ってしまったねぇ。ごめんよ! その罪滅ぼし、じゃないけど、そもそも今日楽しませてもらったお礼に」
 そう述べると、彼は卓に置いた名刺をトントンと叩き「もし、何か相談事があったら、いつでも連絡頂戴。僕で出来ることなら、なんだって手伝うよ」彼はそう微笑み、カクテルグラスを傾けると、まるで一つの仕事を果たしたかのように、再び橋本さんらスタッフとの会話に加わった。
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