四章三節 地に立つというこの証(三) 

文字数 3,537文字

    3

 秋学期が始まると、ティタローザの助言もあって、年明け港区のライブカフェでプーランクの『一五の即興曲』を演奏することが決まった。
「小川さんは、コンクールよりも、こういった場で、表現力を磨いていこう」
 初回レッスンで木谷先生と今期のプロセスを話し合い、再び音大生活の日常が幕を開けた矢先、
 入院先の病床で、千恵さんが亡くなった。

「はんにゃーはーらーみーたー」
 一〇月に入り、清々しい秋晴れの中、葬儀は壇家の寺院で滞りなく行われた。
「石垣さん、年明けから心臓の調子が良くなかったんだってねぇ。でも、ついこの間まで元気そうにしてたし……やっぱり人って、分からんものねぇ」
「でも、噂によれば、この数か月は、生前整理をしてたって話じゃないかい。コツコツ積み立てていた貯えも、お孫さんに一括相続させるみたいで」
「そう、博人さん、今後心配ねぇ。最近お客さんの入りも良いみたいだから、当然浜田湯は続けていくはずだけど。だってあなた、これで一人――」
 と言いかけたところで、弔問客の一人がこちらに目を向ける。下田の叔母さんだ。すっと会釈したのに応じ、慌てて頭を下げかけたところで、
 その視線の先、奥の斎場脇にて、親族数名を相手取る博人さんの姿が見えた。
 れっきとした礼服を着こなす〝彼〟に対し、心配そうに詰め寄る男性と、それを取り持つ女性。もしかして彼らが、以前話してくれた〝彼女〟の父親とその姉か。
「あけびちゃん……」
 と、切なげな声で呼ばれ、後ろを振り向くと、目元を潤ませた由紀菜さんの姿があった。
 そしてその背後には、同じく目元を押さえ、激しく嗚咽を漏らす恋人の姿も。
「あぁ……お二人も来ていたんだね」
 彼女らの純粋な涙に、それまで井戸端会議をしていた叔母さん方も、さすがに気が引けたのか、そっとその場を離れて行った。それにつられるように、私も胸の底から熱いものが込み上げ、足早に二人の下へと向かう。
「由紀菜さん、瑞希さん……本当に急でしたよね……私、こんなことになるなんて、思いもよらず……ちゃんとお見舞いも――」
「ね、私も先月、瑞希と病院に行った時、相変わらず、軽口を叩いていたから、安心していたんだけど。でもね、最後に別れ際『ひろちゃんのこと、よろしく頼む』って……」
「千恵さんなりの気配りよ。あの人……いい加減そうに見えて、誰よりも周りのことを気にしていたから……」
 こらえきれないといった瑞希さんの涙声に、堰を切ったように涙が溢れる。ひとしきり三人で泣き崩れたところで、ふと由紀菜さんがぼそりと、
「それよりも、博人……これから、どうなるのかな。もちろん、私たちも出来る限りサポートするけど、これで天涯孤独」
 彼女の零れ出た本音に、誰も応ぜず、互いに手を取り合うことしか出来なかった。やがて誰からでもなく、私たちは無言で、山門へと歩を向けた。
 ちらと後ろを眺めると、いつしか弔問客の数は少なく、斎場脇から人影の姿は消えていた。代わりに秋の心地良いそよ風が、そっと場内を、優しくたなびいていた。

 それから暫く、浜田湯は休業を余儀なくされたものの、二週間後には何事も無かったように再開された。
 翌日のバイトの日、久々に顔を合わせた博人さんは、珍しく髪を紫にしながらも、至っていつもの調子であった。
 しかし深夜の業務を終え、空いた瓶ケースを裏口へと運んで行ったところで、
「え、バイトを辞めてほしい――」
「うん。突然で悪いんだけど、早ければ今月一杯には。急な自己都合だから、今回は特別に、解雇代も支払うよ」
 釜場から出てきた博人さんから少し話があると言われ、多少身構えていたが、予想外の発言に言葉を失う。
「……今回の千恵さんの件で、ですか」
 日ごとに増す秋の虫の音が、この時はやけに耳ざわりだった。なんとか絞り出すように呟くと、〝彼〟は隠すでもなく、一つ頷き、
「そう。ばあちゃんがいなくなって、いよいよ僕一人で、この『浜田湯』を守っていかなきゃならなくなったから。これまで以上に、人手も欲しくなるし、ある種一つのけじめかな」
 眉を下げながら、その表情は既に、覚悟を決めた輝いた顔だった。万人にみせるその隙の無さが、物悲しくまた腹立たしかった。私は咄嗟に「嫌です。これまで以上に私も頑張りますから、どうか引き続き――」
「駄目」
 懇願するような笑みを浮かべた瞬間、〝彼女〟のはっきりとした拒絶が夜の庭に響いた。
「悪いけど、それは出来ない」
 これまでに見せたことのない厳しい表情で、〝彼〟は石段へと腰掛ける。肩にかけたタオルで、真っ白な首元を拭きながら、心底労りの籠った声音で、
「小川さん。前、言ってたよね。一〇月からは通常のレッスンと伴奏に加えて、年初の練習で忙しくなるって。僕も本当は、あけびちゃんに引き続き、手伝ってほしかったよ。でも、それはできない。今後は間違いなく、うちの業務が、君にとっては大きな負担となる」
 そんなの、と言いかけたところで、思わず口を噤む。そんなのは、分かっている。そんなの、理解した上でどうにかやってみせる。しかし、その発言の軽率さがもたらす周りへの負担を、私は十分理解していた。
「今まで、うちのために尽くしてくれて、ありがとう。でも、もう、ここで求められるのは、バイトの域じゃ無いんだ。どうか、自分の頑張るべき〝本質〟を見誤らないで。小川さんが輝く場所は、ここじゃない」
 相変わらず、純粋な優しい声音が耳を通った。ボロボロと溢れる滂沱、その頭上に温かい掌が添えられる。あぁ、もう。胸の奥底から溢れる思いを、今ここで吐き出してしまえば、どんなに楽だったことか。
 栗色がかった髪をそっとなでながら、「ごめんね」と呟く〝彼〟に、私はやがて「わかりました」と一言応じると、そのまま裏口を後にした。
 帰宅後は、社会との接触を一切断ち、三日三晩泣き続けた。すっかり涙も枯れ果て、急に音に飢えた私は、やをら鍵盤前に座ると、時を忘れて、たたただ一心に練習曲を叩き続けた。

 繭との合わせは、風邪と偽り休み続けたものの、さすがに木谷先生のレッスンを二度欠席する勇気は無かった。
 目回りを入念に化粧で整え、鏡を確認すると、久々に外界へ飛び出す。また一つ季節が進んだな。街中の人々は、例の如く無関心に、己の日常に勤しんでいた。
 池袋に着き、レッスン室に入った瞬間、鋭い眼光を肌身に感じた。
「すいません。暫く体調を崩して、連絡を疎かにしてしまい!」
 咄嗟に頭を下げると、彼は全てを理解したとばかりにふっと息を吐き、
「半年以上か……随分遅かったねぇ。しかも、その様子だと、どうやら負け戦だったようだ」
 まるで私の心を見透かしたとばかりに、驚嘆した顔を浮かべながら、ゆっくり自席へと腰掛けた。
「どうして……一目見て、それを」
「そんなん雰囲気でわかるよ。何年、音大講師をやっていると思ってんだい……はぁ、あけびも、可愛い顔してるのに、随分大胆な恋を選んだんだねぇ。いや、それでこそ、僕の認めた門下生な訳か」
 十分セクハラとして訴えられる発言も、私は気にも留めなかった。
 この人がレッスンに私心を挟まないことぐらい、この一年半の指導を通して、重々承知している。
 果たして彼はその火を絶やしてはならないとばかりに、にっこり微笑むと、恭しくピアノ椅子へ促し、
「別に一回ぐらいの無断欠席や遅刻は、どうってことないから。さぁ、早速ピアノをはじこうか。今日は特別に、なんだって弾いていい! 時間の限り、その思いを曲にぶつけなさい」
 相手を気遣いながらも、幾分声を弾ませる彼の口調に、急に枯れ切ったはずの涙が三度流れ出した。
 あぁ、この先生は、教え子の心の傷すらも見逃さず、それを音楽へ昇華させようというのか。
いや、やっぱりこの人は、選ばれし、音大のピアノ講師なのだ。その割り切った明確性が、この時の私には、なぜかしっくりと腑に落ちた。
「音大のピアノ講師って……皆さん漏れなく、生粋のサディストなんですか」
「何を、今更、言っても僕なんか優しい方だよ……一般教員はともかく、芸術の指導者なんて、究極は自己愛の人間の集まりなんだから。要は割り切り……はい、幸せの感情より、悲しみ絶望の感情の方が、音は映える!」
 丸眼鏡の奥底に宿る、歪んだ嗜虐的な瞳に、私は「へっ」とほくそ笑むと、鍵盤に手を添えた。
 思い切り黒鍵を叩き、テクテクと左右の手を、徐々に憑かれたように、加速させていく。
「ほう、その曲か……ふん、やっぱり君は面白いね」
 初めは鍵盤に降り注いでいた涙も、いつしか渇き、心の乱れは徐々に浄化されていった。レッスンの時間を大幅に超えた二時間、私たちは無言で、音を通してその迸る感情を慰めあった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み