三章十一節 彼女だけの主旋律(一)

文字数 2,004文字

「……ごめん、もう一回」
 おもむろに音が止み、彼女の押し殺すような声に、私も吐息を漏らす。
 伴奏者にとって、ソリストの意見は絶対である。彼女の演奏を引き立てるため、角を立てず音を紡ぐことこそが、伴奏にとっての、何よりの役目である。
 再び主旋律が先走る。以前の自分なら問題なく、合わせられていた音ばかりだ。しかし先月の一件以降、私たちの音も、どこか不協和音が生じてしまっている。もう何度目かのストップがかかるや、私は躊躇いながらも、意を決し、
「ねぇ……今日はちょっと合わなさそうだし、一旦止めにしない。天気が良くないけど……せめて『クレスト』辺りでお茶でもしよ」
 唐突な私からの誘いに、彼女は「……そうしよっか。だらだらやってても、仕方ないし」と茶化すでもなく、銀色の相棒をケースへとしまう。
「クレスト混んでないといいけど」
 彼女の心配に反し、幸いにもキャンパスから徒歩数分の喫茶「クレスト」の客足はまばらであった。
 老齢のマスターに、「ホットコーヒーとホットティー」と注文した瞬間、繭が「あれ、コーヒーじゃないんだ」と思わず目を丸くする。
「あぁ、さっきサイダー飲んだから、お腹を痛めたくなくてね。それで――」と述べかけたところで慌てて口を噤む。と同時に、彼女はこらえ切れないとばかりに、プッと吹き出し、
「だったら、なんでお茶なんか誘うのよ!……別にこの時間なら地下の空き教室とか、学食なんかでも良かったのにー……まぁ、そこがあんたの可愛いとこだけど」
 久しぶりに出た彼女のぼやきに、思わず笑みが零れてしまったところで、そっ、と注文品が差し出される。
「ごめんね、気を遣わせちゃって……うん、言いたいことは分かるよ。そもそもGW明けからの、私たちの不調も、それが原因に決まっているし」
 彼女がカップを手にした瞬間、私は手元にあったシュガーポットを手渡す。見栄っ張りなのに、甘党だから砂糖は欠かせない。それくらいの付き合いを、彼女とはもう一年、共に過ごしてきていた。
「……予め言っておくけど、あの時の二人は私の友達だし、私は当事者でもないから。唐突なことだったとはいえ、二人も……私も凄く傷ついた。せめて、繭が同性愛者を『気持ち悪い』と思う、その理由だけでも、教えてほしい」
 GW最終週、港区のライブカフェで繭のアンサンブルライブを見に行った。多少、稚拙な演奏だったとはいえ、客席の要望に応じ、笑顔でフルートを奏でる彼女は、間違いなく輝いて見えた。
 繭を失いたくない、変わらずパートナーでい続けたい。だからこそ、彼女とは、何のわだかまりもなく、一緒に音を紡いでいきたかった。
「……高校の頃ね、吹奏楽部で好きだった先輩がいてさ。高二の夏、勇気を振り絞って告白し、見事振られた……彼は実はゲイで、同級生のトランペット奏者F君と、前から付き合っていたのよ。以来……同性愛者を見る度に、背筋がゾワゾワし、楽しそうにしている姿を見ると、思わず吐き気が込み上げてくる」
 彼女が顎に手を当て、ほろ苦い笑みで視線を反らした瞬間、私は思わず聞き返してしまう。
「え……たった、それだけ? それだけのために……繭は同性愛者を毛嫌いするの」
 少し詰問するように声を強めるや、彼女は開き直らんばかりに、穏やかな表情を浮かべ、
「ねぇ、あけび。あんた前、生き物の中で『イグアナ』だけは本当無理って言ってたよね。蛙みたいな顔立ちに鱗ばった皮膚と巨大な体躯が、正気じゃいられなくなりそうだって……申し訳ないけど、それと一緒。動物と人間を比べるなって言ったところで、だって生理的に無理なんだもん。
 もちろん、あの時はあまりにも唐突で、お二方には本当申し訳ないと思っている。それに……そんなことの理由で、あけびを当然嫌いになったりする訳がない。
 でも、これだけは譲れない。もし、私たちの軸がせめぎ合い、なおも私たちの音がすれ違うようであれば、その時は……」
「伴奏、別の子に代わってもらうかも」
 静まり返った店内に、彼女の芯の通った、一切妥協の許さない声がはっきりと響いた。
「これだけは譲れない……か、分かった」
 伴奏者にとって、ソリストの意見は絶対である。なぜなら、ソリストが最高の演奏をすることこそ、伴奏者に何より求められる使命だからだ。
 私たちに一線が引かれるかのように、暗がりの卓上に、一筋の明りが射し込む。折しもよく手入れのされたステンドグラスからは、淡い光が、おぼろげに照らし出し始めていた。
「……いつの間にか、雨止んだね。少し早いけど、そろそろ、大教室に向かいますかー」
 気の抜けた彼女の一言に「うん、そうしよ」とすっかり冷え切った紅茶を流し込む。
 店を出、鬼子母神堂の前を通ると、丁度道端のアジサイ畑で近隣の園児たちが写生会を行っていた。「去年は蝉で、今年はカタツムリだね」私のふとした呟きにも、彼女の減らず口が返ってくることは無かった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み