一章九節 埼玉ピアノ音楽祭(二)

文字数 2,960文字

 ペンションに到着すると、クリーム色の壁と趣深い木骨造に模せられた建物の合間から、早くものどかなバイオリンの音が奏でられていた。
「練習室は、日中は基本自由に使っていいからね。とはいえ、勉強熱心な学生さんばかりで、部屋は常に満室……大内さんも気合が入っているのか、少し前に到着するや否や、ここのピアノにかじりついているよ」
 そう話す先生は満足そうな顔を浮かべ、笹川先輩のスーツケースを律儀に部屋まで運んでくれた。
「さっ、ここが今日から一週間、君たちが過ごす部屋だ!」
 部屋の戸を開けた途端、目前の窓から雄大な高原の山々が視界に飛び込んできた。カントリー調で統一されたトリプルルームは、日用品も洗練されており、一瞬北欧の別荘にでも来たかのようにさえ錯覚してしまう。
 しかしそんな雰囲気をぶち壊すように、奥のベッドには大内さんのバックパックが、盛大にぶちまけられていた。先生はよいしょっと、スーツケースを手前のワードローブに置くと、
「それじゃ、僕はこれにて。後、笹川さんはもうわかっていると思うけど、この祭の期間、僕は基本的に君たちにはノータッチだから」
「何かあれば、一つ先のコテージにいるけど。そうじゃなければ、また最終日に……今回の祭で君たちがどう成長し、音楽がどう変わるか、楽しみにしているよ」
 試すような微笑を称え、ドアがパタンと閉じられる。瞬間、笹川先輩が疲れたように一息吐き、ベッドへと腰掛ける。
「どう成長し、音楽がどう変わるかって、言われてもねぇ。笹川先輩、とりあえずこの後、どうします? ランチでも行きますか、確か一三時まで……」
 私は、右手の壁掛け時計を眺めながら、そぞろな気持ちを押し隠し、尋ねる。
「う~ん……ごめんね。私、一息つけたら、ハインリヒ先生に挨拶に行きたいの……私がこうしてこの音楽祭に今年も参加出来ているのも、先生の推薦があってのおかげだし」
「あぁ……わかりました。したらお昼は私一人で行きます……ところで先ほど、木谷先生もおっしゃっていましたが、ハインリヒ先生とは一体?」
 私の問いかけに彼女は、あら小川さん知らないの、と苦笑いを浮かべ、旅路で乱れた身だしなみを整えながら、訥々と語り出す。
 なんでも先輩は去年のこの音楽祭にて、担当講師のマイヤー・ハインリヒにその腕の才を見初められたとのこと。
 その後彼の紹介による、大阪の春演奏会を無事成功させた彼女は、再び招待されたこの祭を通し、彼からピアニストへの足掛かりを掴み取ると、かねてより並々ならぬ覚悟を臨んでいたという。
「私も大学三年で進路へも後がないし、これが最初で最後の機会。今回、絶対に先生の弟子にしてもらうんだ」
 彼女の揺るぎない決意に、私は、そうなんですか、と月並みな返事しか出来なかった。
 それでも彼女はありがとうとにっこり微笑むと、それじゃ私行ってくるから、また夕方のセレモニーで会いましょうと、颯爽と部屋を後にした。
 私しかいなくなった部屋に、先程入れた無機質な冷房音がゴォウっとこだまする。私はゴロンとベッドに寝転び、
「あの笹川先輩ですら、ハインリヒとの師弟関係構築に、もがき苦しんでいるんだ。それなのに私ごときが、ティタローザ、いやピアニストのきっかけをこの祭で作れるなんて……」
「――おぉっ、小川さん、お疲れ様! 二人とも来てたんだね? ねぇ、この後、ランチでも行きましょうよ!」
 と丁度その時、ガチャリと戸が開かれ、課題曲を携えた大内さんが姿を現す。即座に私は身体を起こし、ふと思い立ったように、
「あっ、大内さん、お疲れ様です。えっと、先程まで練習室でピアノ弾いていたんですよね? 帰る段階でまだ空きとかございました?」
「えっ、私が練習していたって、何で知っているのよ!?……まぁ、いいや。えっとねぇ、確かまだ一台、空きがあった――」
「ありがとうございます! すいません、私もちょっと課題曲練習してきます! ランチですが、すいません。またご一緒させください!」
「あっ、ちょっ!」
 気づけば私は楽譜を引き出し駆けていた。何を、雑念を広げているんだ、あけび。自惚れんな。考えるのは二の次だ。まずは与えられた課題に十分に応えなくては。
「練習第一、ちゃんと鍛錬に磨きをかければ、そうすれば自ずと結果は返ってくる」
 練習室に辿り着くと、辺りは他の音大生で賑わいを見せていたが、果たしてピアノは丁度一台空いていた。
 私はそっと部屋に入ると、静かに鍵盤蓋を開ける。タンと鍵盤を弾くと同時に、調律の徹底された澄んだ音が辺りを包み込む。
 光沢のかかったグランドピアノ、防音の完備された室内、十分過ぎるほど整ったこの環境で、練習出来ることに、まずは何よりも感謝しなくては。
 私は一つ深呼吸をすると、もう一度鍵盤に手をかける。既に何百回も奏でた初めの和音を、改めてこの空間に刻み込むように、ゆっくりと紡いだ。

    2

 埼玉ゆかりのプロの演奏家によるオープニングセレモニーが終わったのは、定刻の十八時を少し過ぎた頃だった。
 珠玉の音楽を耳にして、さざめき立つホール内。私とてそれは例外ではなく、いまだ恍惚とした表情で、どうしても真紅の席から腰を上げることが出来なかった。
「凄かったね、これぞまさにプロの演奏」
「はい……圧巻でした」
 演奏直後、ため息を吐きながら呟く笹川先輩の一言に、凡庸なコメントしか返せない自分がなんとももどかしかった。
 一つ隣では大内さんが、なおも感激してむせび泣いている。それほどまでに、今回のセレモニーは、私たちの心をかき乱して止まなかった。
「やっぱプロになるって、こういうことなんだよね。ただ上手く弾けばいいって、ものじゃない。観客の気持ちを揺れ動かす。そのための旋律を、プロの演奏家は、当たり前のように披露出来なければならない」
 自分に言い聞かせるように、小さく漏らす先輩の言葉が届いたのか、目の前の音大生の一人がそっと出口へと向かう。
「さっ……小川さん、大内さん。私たちもそろそろ戻りましょっ! いつまでも、悦に浸ってちゃ駄目ね。明日から漸く、個別レッスンも始まる訳ですし!」
 彼女の少し無理の入った一言に、大内さんが、はいと目元をハンカチで押さえ、ゆっくり立ち上がる。
「そうですね。その前に……すいません。少しお手洗い行って来ても良いですか? ホールの冷房の寒さにやられたのか、ちょっとお腹の調子が……」
「あっ、だったら私も行きたい! この後、すぐディナータイムに入るし、このぐちゃぐちゃの顔を、少し直しておきたいよ」
「そう。だったら私、先に部屋に戻っているね。ルームキー持っているの、小川さんだっけ。借りてもいい?」
「あぁ、すいません……っと、どうぞ」
 ポーチに入っていたルームキーを手渡すと、私たちは揃って、一向に演奏の魔の音に動けないでいる集団の残るホールを後にした。

 扉を開けるとそんなホールとは対照的に、夕陽の射すロビーは、先ほどの演奏者とその関係者、また地元の観客、音大講師に学生とごった返していた。
「それじゃ、お先に!」
 そう告げると、笹川先輩は颯爽と人混みの合間を物怖じせず抜けていった。その毅然とした態度に無意識に見惚れていた私は、お腹の音に促され、慌てて大内先輩と共に化粧室へと急いだ。
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