三章十四節 彼女だけの主旋律(四)

文字数 2,451文字

「何……ばあちゃんと、ほんと、どんな話してたのさ」
「いや、千恵さん。相変わらず元気だなって」
「そう、小川さんにはそんな風に見えた」
 〝彼女〟の微かに見せた憂いに、私は咄嗟に「大丈夫?」の一言が発せ得なかった。瞬く間に、いつもの気丈な表情へと切り替わった博人さんは、「ところで今日は、何か相談したいことがあったんだっけ?」と、振り切るように声を強める。
「あ、そうなんです。実は再来週に開催される梅祭り、よろしければ、私の友達を連れてきても良いですか?」
「いいけど。その友達って、前、由紀菜たちに『気持ち悪い』って言った例の子?」
〝彼〟の訝しむような視線に、私は反らすことなく、神妙に頷く。
 あの一件含めて、私と繭との関係は、既に博人さんや由紀菜さんたちには話している。由紀菜さんと瑞希さんは「あんなん、気にしてたら、LGBTイベント参加してないって」と気さくに笑い飛ばしてくれたが、私は申し訳なさと、不可抗力とはいえ結果的に三人を不快にさせてしまったことに、心のわだかまりが一向にとけなかった。
「今回のイベントを通して、改めて私のポリシーを彼女には、はっきりと伝えたいです。もし、それが拒否されても、その時はその現実を、しっかり受け入れようと」
『傍から見ても、繭の演奏パートナーは、やっぱり小川こそ相応しいって、思うんだよね』
 先日の三浦君の一言が、脳裏をよぎる。うん、そんなことぐらい、当の本人が一番分かっている。
 だからこそ、繭とは曖昧に関係を続けていくよりかは、やるだけのことと思いを告げて、後はソリストの判断を仰ぎたい。
 私の熱意の籠った瞳を、〝彼女〟は暫く無表情で眺めていたが、やがて「うん、いいよ。でも連れてくるのは、イベント終わり際のタイミング。さすがに前科があるから」と、真っ白な頬を掻きながら、釘を刺される。
「はい、もちろんです! ありがとうございます!」
 間髪入れずに頭を下げると、〝彼〟は思いを馳せるように天を眺めながら、そっと引き戸の先へと去って行った。
 一六時の時計が鳴る。私は慌てて前掛けを手にすると、表の出入り口へと駆けた。
 暖簾越しに眺める通りは、いつしか雨は止んでいた。水たまりを避けるように、人々は慌ただしく、個々の目的へと急いている。
 今日も江古田は平和だ。ゆっくりと古びた暖簾を掛けると、涼し気な冷気を肌身に感じた。
 私は一つ息を吐くと、隣の夕涼み椅子に腰かける。ただただ無心で、この時ばかりはピアノのことも、千恵さんも繭のことも忘れ、移ろう通りの雑踏に思いを馳せた。

 繭の担当講師である宮島先生から呼び出しを食らったのは、その翌週の昼下がりのことである。
「繭さー、最近凄く調子いいし、秋に外コン受けてみなよー。伴奏の小川さんの予定もあるだろうけど、やっぱ夏休み明けは忙しい?」
 三一という、学内一二の若さの宮島先生は、繭曰く「フルート先生、他姉ちゃん」というくらい、親しみやすい美人教師である。
 キョロリとした視線が向けられた私が、咄嗟に「九月は木谷先生から――」と言いかけた瞬間、それを遮るように、彼女ははっきりと、
「受けます。伴奏とは既に会話済みですので、是非参加の方向で進めさせてください」
 迷いの無い即答に、私は目を見張らせ、
「え…ちょっ、会話済みって!? 私――」
 反論の口を開きかけたところで、背中のドレスが小さくつままれる。私は小さく咳払い後、
「本田さんの意向に……従います。なんとか時間は、確保出来なくは無いです」と投げやりに返答すると、そのまま宮島先生の表情を見ることなく、講師室から退いた。

「繭、一体どういうこと? 急に宮島先生から呼ばれて、しかも外コン受けるだなんて。私、言ったよね。九月は木谷先生紹介の、外部講師特別レッスンを受けるかもって。なんで、そのタイミングで相談もなく――」
「ごめん、宮島先生から『小川さん連れてきて』とは言われたけど、まさか外コンの話だったなんて……でも、貴重なチャンス、あの場ではああ言うしか無かった。最悪、あけびが厳しければ、アンサンブルライブで一緒に弾いた、むさおんの福島さんに伴奏お願いするから」
「繭、いい加減――」
 私がキッと険しい顔を向けた瞬間、彼女の平然とした顔が目についた。そうか、今私は捨てられかけているのだ。あの晩の出来事をきっかけに、彼女はなおも私との伴奏を望む一方で、別の伴奏者への切り替えも暗に模索している。
 立場がひっくり返っている現実に、私が無言で唇を噛み締めていると、彼女は労りの籠った声音で、でも堂々と、
「前も話したと思うけど、私にとって、伴奏者は、あけびであり続けてほしい。そんなの、当然に決まっている。でも、引き続きの不協和音で、なおもフルートの演奏に差し障りが生じるなら、伴奏は解消しないといけない。それくらい、〝音楽に人一倍愚直な〟あけびなら、十分分かるよね?」
 諭すように、はっきりと告げた。この時、初めて彼女が友人としてではなく、一介のアマチュア演奏者のように感じられ、無意識に小さく溜息が零れた。
 私は「分かった」と一言告げると、「それじゃ、お互いの予定もあるだろうし、急だと思うけど、今月中にははっきり決めてほしい……後、それとは別件なんだけど、来週の土曜日、空いてる? 実は桜台の公民館で梅ジャム作りに参加するんだけど、良ければ一緒に行かない?」
「いいよ……来週の土曜日、うん、行ける! それじゃ、ごめんだけど、この後予定あるから」
 誘いの本質を理解しているのだろう。唐突な提案にも拘わらず、彼女は訝しむでも、逆質問するでもなく、首肯すると、躊躇うことなく、空き教室から去って行った。
 私はそれをぼーっと眺めながら、たった今、彼女の座っていた空席を見つめる。押し寄せる小さな安堵とそれを上回る不安に、咄嗟に視線を外へと転じた。
 空を覆う曇天からは雨の気配は見られず、梅雨の終わりを想起させた。それでも頭上一面広がる鉛色は、一向に晴れる気配を感じられ得なかった。
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