二章十四節 チャイコフスキーの胸のうち(三)

文字数 3,050文字


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 着替えを済ませ、ホワイエに戻ると、丁度休憩時間に入ったのもあってか、館内は多くの人でざわつきを見せていた。
「あけび、お疲れ~。あんたもしかして、二次予選に全て賭けてた? 他の奏者と比べて、曲への熱意が半端なかったんだけど」
 と、一人ソファ椅子に腰かけていた本田繭が、私を見つけるや、脱帽した表情でこちらへと向かう。ニットワンピースでAラインを強調した装いは、手足が長くすらりとした繭にふさわしいドレスコードだった。
「あぁ……ね。今回は、予選通過よりも、自分の音色を多くの人に評価してもらいたい。それ一心で本番に臨んだから」
 こそばゆい思いで、たった今、会場の自販機で購入したミルクティーに口をつける。普段はブラックコーヒー派ではあるが、今はどうしても糖分が欲しかった。
「あと繭、本当に衣装はありがとうございました。凄く可愛かったし、おかげさまで、最高のパフォーマンスを発揮することが出来た」
 ドレスの入ったリュックを叩き、深々と頭を下げる。すると彼女はいやいやと大げさに右手を振り、
「だから、お古の衣装だから大したことないってー!……それにしても今回は、改めてあけびの本気を見させてもらいましたわ。所々、ミスがあったとはいえ、さすが木谷門下……って、そんな訳ないでしょ! あんた、私がウィーンに行っている間に、何か心象的変化があったよね!?」
「えっと~、それなんだけどね。実は、繭には話してないことが一つありまして……去年の秋頃ね、地元江古田の銭――」
 荒くれ猫のように目を血走らせる繭の表情に、私は空いていた近くのソファ椅子に腰掛ける。今、ここで伝える話題でもないんだけどなぁ。苦笑いで彼女に再び顔を向けたところで、その端にホール扉から出てくる二人の誘い人の姿が見えた。
「あ――」
「おや? まぁー、学生さん! 今日はお誘いありがとうねー!……やっぱクラシックって、良いわねぇ。死んだおじいさんとも、毎回競馬場通いなんかせずに、たまには音楽鑑賞でも出向けばよかった――」
 私と視線が合うや、満ち足りた表情でひょこひょこと歩み寄ってくる千恵さんは、普段のニヒルな面影は全く無かった。私はその毒気の抜かれた姿に、こっそりその隣の顔を見やった。
「ばあちゃん、いい機会だから、これをきっかけに、馬から足を洗ってよ……小川さん、今日は改めて、あなたのピアノを聴けて幸せでした……それで、もしかして今日弾いた曲なんだけど、あれ、この前僕が話した過去に対する、一つの意思表示だったりします?」
 ブラウンのテーラードジャケットを着こなした博人さんは、そう述べると試すように、こちらの顔色を伺った。
「こちらこそ、お二方とも、わざわざご足労いただき、ありがとうございました……えっとー、仰る通りです。でも、どうしてそのように――」
 気づいて貰えたら嬉しいと思っていたものの、まさか開口一番的確に指摘され、若干面食らう。それでも私はしっかり肯定すると、その真意を探るように、じっと相手の目を見据えた。
「やっぱり、そっか……うん、実はね、小川さん――」
「なるほど、そういうことー!」
 とその間二人のやり取りを見ていた繭は、この時全てを悟ったとばかりに、素っ頓狂な声を上げた。既に自分は蚊帳の外に置かれながら、この状況をすっかり楽しむかのように、
「ごめん、あけび。どうやら私はすっかりお邪魔みたいだし、今日はこの辺で失礼させてもらうわ……詳しい話、今度しっかり聞かせてもらうから……はぁ、あー。やっぱりあけびは、私にとっての〝アイドル的存在〟ねー」
 最後は繭にしては、少し声を潜め、三人にぺこんとお辞儀をすると、躊躇することなく颯爽と出口へと去って行った。
「あぁ……お取込み中でしたよね。ごめんなさい、急に話に割り込んでしまい……」
 足早に会場から消えて行く繭の後ろ姿を眺めながら、博人さんが申し訳なさげに、その真っ白な頬をわずかに掻く。
「あ、いえ……彼女なら全然大丈夫ですよ……ところで先程の言葉ですが、やっぱそのように聞こえましたか?」
 どうせ話すべき事実が、具現化されただけだ。私はすっかり出入りの激しくなった出口を一瞥すると、再び博人さんに視線を向ける。鼓動はいつの間にか、摺鉦のように高鳴りを見せていた。この心の内だけは、どうか相手に見透かされませんように。
「そうね、今日小川さんの曲を聞くにあたって、少しだけその楽曲と作曲者について調べてみたんだ。『ピョートル・チャイコフスキー、同性愛者として日々の生活に苦悩しながら、有名な協奏曲やバレエ音楽・交響曲を作曲していく』最初はたまたまだと思ったんだよ。でも今日小川さんの、会場のお客さんに対し挑むような音色を聴いた瞬間、悲しみとそれを包み込む温かさを全身に感じて。これまでの僕の思い、活動を、音楽を通して肯定してくれたようで。演奏を通して胸の奥底から、エネルギーが沸々と湧いてきた」
 博人さんの言葉に、私は咄嗟に口を開くも、喉元からどうしてか言葉が出てこなかった。
 変わりに目尻から、無数の雫が零れ出す。それは初めて表現者として、想い人へその胸中が伝わったことへの喜び。やがて堰を切ったように溢れる滂沱は、容赦のない現実世界を、曖昧模糊なそれへ、即座に転じさせてしまう。
「あの……ごめんなさい。伝わったことが嬉しくて……あぁ……なんでだろう。私、今までこんなこと――」
「小川さん」
 身体が理性に追い付けていないことに、幾分混乱しかけている私に、そっとタオルハンカチが差し出される。〝彼〟は「ごめんね」と呟くと、「この場で話すべきではなかったね、僕がちょっと考えなしだった」と口惜し気にそっと臍を嚙んだ。
「いえ。そんなこと……私こそ突然、驚かせてしまい……」
 ギンガムチェックのタオルハンカチからは、うっすらと馴染みの柔軟剤の香りが漂う。
「学生さん……私はね、今でも正直、あなたたちが考えていることが十分には理解出来ないのさぁ。でもね、これだけは言える。今日聞いた演奏の中で、間違いなくあなたが最高の奏者だったって」
「千恵さん……私……わっ!」
 途端にざわつきだすホワイエに視界を上げると、一面を覆う透明な窓ガラス越しに、大振りの牡丹雪がとめどなく舞い出していた。
「おぉっ!」
「あれぇ、今年の初雪かい!」
 視界に広がる白い結晶は瞬く間に、外の広場を銀世界へと作り替えていた。その時、私は思った。偉大なる作曲家として周囲にもてはやされながら、その愛は生涯世間に受け入れられることなく、死んでいったチャイコフスキー。一体彼は何を願って、モスクワの冬の雪を眺めていたのだろうか。
 音楽が世界を変えるだなんて、そんな夢物語的なことは露も思わない。でも身近な周りを、変えようとしている人たちの一助に、私はピアノを通して支えていければ。
 残り三年何のために演奏をするか、私がピアノを弾き続ける意義、その答えはいまだ見えていない。でもその片鱗を〝彼女らと〟このコンクール演奏を通し、少しだけ見出せた気がする。
 休憩の終わりを告げる放送が流れ、人々が再びホールへと戻り始める。「この後、もしよければ一緒に演奏聞かない?」博人さんの誘いに、喜んでと破顔一笑で応じる。私たちは今もなお、ひどく無慈悲な世界に佇んでいるのかもしれない。でもそこには、確かに無数の愛が満ちている。客席へと向かう間、そっと差し出された手を、ゆっくり握り返すと、そこは驚く程優しいぬくもりに満ちていた。
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