三章十節 渦中のうちの私の目標

文字数 2,299文字

 
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 虹の湯イベントから二週間が経ち、音大生活二度目の、ピアノ科にとっては実に憂鬱な梅雨を迎えていた。
 スマホのアラームが鳴るや、私は片付けを済ませ、所定時間通りに練習室を退く。乾燥した室内とは打って変わり、じめっとした廊下から眺める窓辺には、早くも無数の雫が滴り落ちていた。
 繭との合わせまで、後三〇分か。私は中途半端な時間に顔を歪ませながら、とりあえず階上の休憩スペースへと歩を向ける。と、
「ん?」
「あっ! あけびちゃんお疲れー。こんなとこで、会うなんて珍しいね。今から自己練?」
 不意に視線を上げた、同期の滝香澄に、私は驚くでもなく「ううん、今終わったところ。香澄ちゃんも、来週の門下演奏会の練習?」と、彼女のお気に入りのショパンの楽譜に視線を向けながら、そっと尋ねる。
「そーそー。季節に合わせて、『二四の前奏曲 第一五番』でも弾こうかなって。この曲、好きなんだよねぇ。というか、ショパン自体、割と久々に弾くかも」
 普段の気の強い態度とは異なる、小動物のような無垢な笑みに「私も! この時期だし、ドビュッシーの『版画 雨の庭』を弾く予定。本当、学内で好きな曲を好きなように弾けるって、貴重だよねー」
 と嘆息しながら、隣の丸ソファへと腰を据える。
 六月と一二月の年二回催される木谷門下演奏会は、学内で唯一、息抜きというか、門下生のレクリエーションとしての演奏会だ。
 特にこの六月は、上の三・四年生はもちろんのこと、新たに門下に入った新一年生との初めての顔合わせの場でもある。
 年初の笹川先輩一件以降、それまで知る人ぞ知る的な存在だった木谷門下が、俄然注目を浴びているという。実際、今年の新一年生の数も木谷先生曰く、過去最多と聞いている。
「先生も、柄に無く、今年の門下演奏会、気合入っているよねー。やっぱり門下生が増えたことに、内心喜びを感じているのかな」
 どこか他人事のような彼女の呟きに対し、「なんだかんだ、あの人、教えるの好きだもんねー」と一呼吸空け、飲みかけのサイダーで喉を潤す。
「それより……あけびちゃんさ、今年のロビーコンサートはパスする予定なんだって。やっぱり……本命は来年ってこと?」
 ショパンの楽譜をしまい、おもむろに声色を変える彼女に、「まぁ……来年かな。今年はまだ早いと思って……時間も無いし、先生からも暗に諭された」
「……そっか、それを聞いて安心したよ。私も目標、来年にしたんだ」
 嫌味たらしさなどおくびにも出さず、彼女は合点がいったという顔を浮かべると、「んー! それじゃ、私そろそろ練習行くね。来週の門下演奏会、楽しみにしているよ」とオメガの腕時計を一瞥し、そのまま、予約した部屋へと去って行った。
「うん、またね!……『安心した』か」
 スマホのホーム画面は、いつしか一五時を示していたものの、繭からの連絡はまだきていない。再び一人になった私は、手持ち無沙汰に、意匠のきいた天井を眺める。
 八月の終わり頃、ピアノ科選抜生によるロビーコンサートは、門下生一人につき、計二〇人前後で開催される。
 なお門下毎の公平性の観点から、前年度、このロビーコンサートに選出された門下は、翌年の選抜はかなり倍率が上がるという。
 確かにうちの門下で、今年から来年のロビーコンサートを目標にしているのは、私か香澄ちゃん、或いは三浦君ぐらいという話だ。途端に先程の、彼女の胸をなでおろしたかのような表情が思い起こされる。つまり何か。私たちが来年目標に回った方が、彼女にとってはむしろ好都合とでも言うのか。
「何それ……あの娘なんかに……負けてたまるか」
 香澄ちゃんとは、うちの門下唯一の同性の同期として、互いに幾分心を許す反面、それぞれの負けず嫌いな性格と、同じようにピアノに向き合う姿勢またレベルから、入学当初から、身近なライバルとして切磋琢磨していた。
 もちろん、演奏者として積極的に外コンへ参加する彼女と、ピアノを〝学ぶ〟ことに重点を置くようになった私とでは、その本質は異なる。それでもある種、私たちの一つの決戦が、来年のロビーコンサート選出にでもなるのであろうか。
 少しクールダウンして、サイダーを飲み干したところで、ようやく繭から連絡が入る。
『前の時間の座学が長引いちゃって。今から練習室へと向かいます!』
 幾分、絵文字が減り、事務的になったメッセージに、私も了解のスタンプを送ると、空になったボトルを片し、そのまま所定の部屋へと向かう。
 道中、通路越しに見た空は、一層、その雨脚が増していた。頭上に浮かぶ塵芥のような黒雲と、なおも全身を覆う見えない湿気に、私は苛立たし気に、歩を速めた。

「ごめん、あけび。さっきのところ、もう一回弾いてもらってもいい? 気持ち、Moderatoな感じで。第二楽章の手前で良いから」
 眉間を寄せながら、楽譜に書き込みを入れる彼女に対し、私は「うん、いいよ」と先程よりテンポ良く、伴奏譜の音を流麗に奏でる。
「うーん……違う! 楽章に入る際の、ブレスのタイミングが、こっちと若干ずれてる。私に合わせるような感じで――」
「繭、でも、この曲、いくら柔軟なテンポとはいえ、音が少し早すぎるよ。第二楽章はAndanteなんだから、ちょっと速度を緩めた方が……」
「そんなこと!……いや、そうだね、分かった。それじゃAndanteのテンポで、さっきとおんなじとこ」
 掛け声と共に、再び第二楽章から伴奏を開始する。確かに音の速さは、多少落ち着きを取り戻した感はある。しかし今度は、速度を気にし過ぎるのか、フルートの音がしぼんでしまい、その分、伴奏音が浮いてしまう。
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