二章十節 レインボーフラッグ(七)
文字数 3,531文字
結局僕は、岸和田さんの下で学ぶべく、高校卒業と共に江古田を離れたのを機に、二度と生きた祖父と対面することは叶わなかった。
最後に彼と会話を交わしたのはそう、卒業式間近の夕暮れ時。千川通りの桜並木が、一足早い満開を迎えていた頃合いだった。
既に癌の再発見で検査入院していた彼は、病院先のベッドで静かに横になっていた。あれだけ健啖家だった彼が、みるみるとやせ細り、とりわけ覇気の無い姿は、見ているこっちも胸が潰されるほど、辛かった。
「……ばあちゃんから頼まれていた、着替えと本、ここに置いとくよ。後、食べられそうならって、苺も持たせてくれた」
「あぁ……んん、ありがとう……博人、お前高崎行きの準備は順調か。洋介にも、くれぐれもよろしくって、伝えといてくれよ」
「うん……ねぇ、それなんだけど、やっぱり、群馬に行くの、もう少し、引き延ばせないかな。岸和田さんも大丈夫って言ってるし、今のおじいちゃんを残して、江古田を離れるのはやっぱり心配だよ」
「……馬鹿こくなぁ。俺は平気だって、何度も言ってるじゃねぇか。それより……今のお前に必要なのは、浜田湯を継ぐのに相応しいスキルを早く身につけることだ。俺なんかに、貴重な時間を割く必要なんかない」
「でも――」
「いいか」
そこで彼は身体をこちらへ向けると、話すのも億劫そうながら、それでも、ありったけの声を絞り出し、
「そもそも俺たちは、弥生が急死したことで、養い先の無い学生のお前を引き取った。それは弥生の親として、当然の義務だったし、またそれ以上でも以下でもない。だから……大人になり、自立するお前に義理立てされる道理なんか無いんだ」
「お前が浜田湯を継ぎたいって言った時、一個人としては凄く嬉しかったよ。でも優しいお前のことだ。『僕個人の想い、意思』と言ったって、少なからず俺たちのために、自らを犠牲にしているところもあるだろう。
だから、これが最後の乗り越えるべき壁だ。俺が寝込んでいてもなお、お前は洋介の下でしっかり頑張ってこい。それを乗り越えてこそ俺は、やっと安心して浜田湯をお前に任せられる」
そう呟くと彼は、かすれた声も気にせず、僕をキッと見据えた。それは祖父と孫という関係を超えた、いわば師匠が愛弟子に最後の試練を課す、そんな雰囲気に近かった。
「……分かった。僕、予定通り来週から、群馬で頑張ってくるよ。だからじいちゃんも……病気なんかに負けないで。僕が浜田湯に戻って来た時、また元気に迎えて」
「ふん……あたぼうよ! これしきの病気に、負けてたまるか!……後なぁ、俺はお前にもう一つ、謝っておきたいことがあってな」
そこで彼はふっと目尻を下げると、申し訳なさげに表情を緩め、
「俺はこの二年弱、お母さんと共に、博人に何不自由かけないよう育ててきた。でも……お前が時々、俺たちに気を遣ってか、無理している姿を何度も見てきた。それを最後に謝っておきたくて……お前を生きづらそうにさせて、本当すまんかった」
そう述べると、彼はベッドの上で、初めて正面から僕に頭を下げた。
「違……いや、おじいちゃん違うんだ、僕……僕ね!」
言わなきゃ。今ここで、僕がXジェンダーであること。今でもなおストレス発散に女装をし、新宿二丁目が癒しの場所であるということ。そして、今、同学年の彼と付き合っているということ。
でもこの場で話したら全て丸く解決するのだろうか。あの時の世界の揺らぎを再び感じる。僕がおもむろに口を開きかけた時、彼は柔らかくそれを静止し、
「大丈夫……吐き出して、すっきりするなら、そのまま続けなさい。でも……そうじゃなければ、無理に俺に打ち明ける必要なんかない」
「博人、俺はお前の全てを知ることが出来なかった。でもな……それでも、俺がお前に望むのはただ一つ……伸び伸びと幸福に人生を謳歌してほしい、それだけだ。たとえ俺たちに理解出来ないことでも、お前が充実した日々を過ごせるなら、俺は何よりも嬉しいよ」
そう述べると、彼は愛おしそうに実孫を眺め、恥ずかしくなったのか再び窓の外へと身体を戻した。
「おじいちゃん――あ、それじゃ僕そろそろ帰るね! また明日、顔出しに来るよ!」
決して相容れないと思っていた祖父の一言に、僕はなんとか言葉を振り絞り部屋を退くと、周りの視線も気にせず、一人夕闇の増す院内で慟哭した。
どれくらい経っただろう。すっかり涙も枯れ果て、虚ろに病院を出ると、丁度千川のほとり、マスクをつけた親子と仕事帰りのサラリーマンが、のんびり夜桜を眺めていた。
当たり前の世の中にしていこう。この時僕は、はっきりと決意した。より多くの人が〝自分らしく生きられる〟ためにも、銭湯を通してLGBTを発信していこう。
一年後、僕は浜田湯に帰ってくると、一人取り残された祖母に、自身の性をカミングアウトした。最悪浜田湯を追われるくらいの覚悟を決めていたものの、彼女はその真意はさておき、あっさりとXジェンダーの僕を受け入れてくれた。
やがて浜田湯が再び軌道に乗り始めると、僕は休日の合間を縫って、性的マイノリティーのイベントに積極的に顔を出すようになっていった。そしてそこで出会った由紀菜たちと共に、昨年頃からこうして、隔月程度で、LGBTと地域の人との交流の場を設けていっているという訳さ。
「ありがたいことに、この交流会がきっかけで、少しずつ浜田湯の利用客、さらには江古田の人々にも、性の多様さを理解してもらっていると感じる。でもいまだ、好奇の視線や心無い一言を発する人も決して少なくない。浜田湯を盛り上げると同時に、そんな人をゼロにする、これが僕の目標でもあり夢なんだ」
〝彼〟はそう締めくくると、「随分と長い話になってしまったね。本当に最後まで真剣に聞いてくれてありがとう」と、労り気な視線をそっと向けた。
「いえ……すいません。こちらこそ、凄く興味深い話を聞かせていただき! LGBTについては……やっぱり自分事化するのは難しいかもですが、それでも生きづらい世の中を変えていく、そんな行動姿勢には本当に感銘を受けました」
私はこの一九年で踏み入れたことの無い世界、人々を知ることが出来、内心の興奮が冷めやらなかった。
「感銘だなんて、とんでもない。むしろ、改めてになるけど、今回の菊祭り、その実態を事前にお伝えしてなくて、本当に申し訳なかった」
なおも頭を下げる〝彼女〟に、博人さんが謝る筋合いは無いですよと、必死に両手を振る。
「あの、定期的に湯船に浸かりに来ますから、またイベントがある際は、教えてください。由紀菜さんや他の人とも仲良くなりたいですし、後、今回は博人さんの話ばかりでしたし、今度は私の話もしたいな、なんて」
はにかみ交じりにそう述べると、〝彼〟は少し意外そうな顔を浮かべた後、是非と小さくはにかみ返した。
浜田湯から帰宅すると、私は溜まっていたものを吐き出すように、かれこれ三時間近く、夢中になってピアノを打ち鳴らしていた。
スマホの無機質なタイマー音が午後一〇時のアラームを鳴らす。ハッと我に返った私は、そっと鍵盤の蓋を下すと、そのまま放心の体でソファに腰を埋めた。
〝浜田湯を盛り上げると同時に、そんな人をゼロにする、これが僕の目標でもあり夢なんだ〟
本日浜田湯で出会った様々な人々の境遇に刺激を受けたというのはもちろんだが、とりわけ博人さんの最後の一言が、私の濁った体内に半ば浄化槽的役割を果たした。
彼やそれを支える仲間たちは、多様な人々がより生きやすくなるために、銭湯を通し、その理解に努めているという。それは私にとってあまりにも眩しく映ったとともに、あくまで己の研鑽にピアノに固執する自分が凡夫のようにも感じてならなかった。
ふとソファの端に投げ置かれた三冊の楽譜が視界に入ったが、どうにも手に取る気はおきない。その代わりに私は無意識に、部屋の隅の書棚へ移動すると、その中のいくつかの楽譜スペースへと視線を向けた。
ショパン、モーツァルト、シューマン。そこにはかつて私が弾いた楽譜が、すっかりくたびれた状態のまま、色褪せて並んでいた。その隅で一冊、すっかり埃を被った楽譜が目につく。私は何の気なしにそれを手に取ると、
「あ、これって――」
暫く表紙を眺めた後、私は即座に再びピアノ椅子へと腰掛けていた。
タッ、タタタ、タッタッ、タッ、タッ、ター。バレエ音楽として、あまりにも有名な冒頭のファンファーレ。
彼女らのことをもっと知りたい、近づきたい。その曲は、そんな私と彼女らを繋げる導線のようにも感じられた。と共に、いまなおくすぶっている私にとっての、何か道しるべのようにも思えてならなかった。
最後に彼と会話を交わしたのはそう、卒業式間近の夕暮れ時。千川通りの桜並木が、一足早い満開を迎えていた頃合いだった。
既に癌の再発見で検査入院していた彼は、病院先のベッドで静かに横になっていた。あれだけ健啖家だった彼が、みるみるとやせ細り、とりわけ覇気の無い姿は、見ているこっちも胸が潰されるほど、辛かった。
「……ばあちゃんから頼まれていた、着替えと本、ここに置いとくよ。後、食べられそうならって、苺も持たせてくれた」
「あぁ……んん、ありがとう……博人、お前高崎行きの準備は順調か。洋介にも、くれぐれもよろしくって、伝えといてくれよ」
「うん……ねぇ、それなんだけど、やっぱり、群馬に行くの、もう少し、引き延ばせないかな。岸和田さんも大丈夫って言ってるし、今のおじいちゃんを残して、江古田を離れるのはやっぱり心配だよ」
「……馬鹿こくなぁ。俺は平気だって、何度も言ってるじゃねぇか。それより……今のお前に必要なのは、浜田湯を継ぐのに相応しいスキルを早く身につけることだ。俺なんかに、貴重な時間を割く必要なんかない」
「でも――」
「いいか」
そこで彼は身体をこちらへ向けると、話すのも億劫そうながら、それでも、ありったけの声を絞り出し、
「そもそも俺たちは、弥生が急死したことで、養い先の無い学生のお前を引き取った。それは弥生の親として、当然の義務だったし、またそれ以上でも以下でもない。だから……大人になり、自立するお前に義理立てされる道理なんか無いんだ」
「お前が浜田湯を継ぎたいって言った時、一個人としては凄く嬉しかったよ。でも優しいお前のことだ。『僕個人の想い、意思』と言ったって、少なからず俺たちのために、自らを犠牲にしているところもあるだろう。
だから、これが最後の乗り越えるべき壁だ。俺が寝込んでいてもなお、お前は洋介の下でしっかり頑張ってこい。それを乗り越えてこそ俺は、やっと安心して浜田湯をお前に任せられる」
そう呟くと彼は、かすれた声も気にせず、僕をキッと見据えた。それは祖父と孫という関係を超えた、いわば師匠が愛弟子に最後の試練を課す、そんな雰囲気に近かった。
「……分かった。僕、予定通り来週から、群馬で頑張ってくるよ。だからじいちゃんも……病気なんかに負けないで。僕が浜田湯に戻って来た時、また元気に迎えて」
「ふん……あたぼうよ! これしきの病気に、負けてたまるか!……後なぁ、俺はお前にもう一つ、謝っておきたいことがあってな」
そこで彼はふっと目尻を下げると、申し訳なさげに表情を緩め、
「俺はこの二年弱、お母さんと共に、博人に何不自由かけないよう育ててきた。でも……お前が時々、俺たちに気を遣ってか、無理している姿を何度も見てきた。それを最後に謝っておきたくて……お前を生きづらそうにさせて、本当すまんかった」
そう述べると、彼はベッドの上で、初めて正面から僕に頭を下げた。
「違……いや、おじいちゃん違うんだ、僕……僕ね!」
言わなきゃ。今ここで、僕がXジェンダーであること。今でもなおストレス発散に女装をし、新宿二丁目が癒しの場所であるということ。そして、今、同学年の彼と付き合っているということ。
でもこの場で話したら全て丸く解決するのだろうか。あの時の世界の揺らぎを再び感じる。僕がおもむろに口を開きかけた時、彼は柔らかくそれを静止し、
「大丈夫……吐き出して、すっきりするなら、そのまま続けなさい。でも……そうじゃなければ、無理に俺に打ち明ける必要なんかない」
「博人、俺はお前の全てを知ることが出来なかった。でもな……それでも、俺がお前に望むのはただ一つ……伸び伸びと幸福に人生を謳歌してほしい、それだけだ。たとえ俺たちに理解出来ないことでも、お前が充実した日々を過ごせるなら、俺は何よりも嬉しいよ」
そう述べると、彼は愛おしそうに実孫を眺め、恥ずかしくなったのか再び窓の外へと身体を戻した。
「おじいちゃん――あ、それじゃ僕そろそろ帰るね! また明日、顔出しに来るよ!」
決して相容れないと思っていた祖父の一言に、僕はなんとか言葉を振り絞り部屋を退くと、周りの視線も気にせず、一人夕闇の増す院内で慟哭した。
どれくらい経っただろう。すっかり涙も枯れ果て、虚ろに病院を出ると、丁度千川のほとり、マスクをつけた親子と仕事帰りのサラリーマンが、のんびり夜桜を眺めていた。
当たり前の世の中にしていこう。この時僕は、はっきりと決意した。より多くの人が〝自分らしく生きられる〟ためにも、銭湯を通してLGBTを発信していこう。
一年後、僕は浜田湯に帰ってくると、一人取り残された祖母に、自身の性をカミングアウトした。最悪浜田湯を追われるくらいの覚悟を決めていたものの、彼女はその真意はさておき、あっさりとXジェンダーの僕を受け入れてくれた。
やがて浜田湯が再び軌道に乗り始めると、僕は休日の合間を縫って、性的マイノリティーのイベントに積極的に顔を出すようになっていった。そしてそこで出会った由紀菜たちと共に、昨年頃からこうして、隔月程度で、LGBTと地域の人との交流の場を設けていっているという訳さ。
「ありがたいことに、この交流会がきっかけで、少しずつ浜田湯の利用客、さらには江古田の人々にも、性の多様さを理解してもらっていると感じる。でもいまだ、好奇の視線や心無い一言を発する人も決して少なくない。浜田湯を盛り上げると同時に、そんな人をゼロにする、これが僕の目標でもあり夢なんだ」
〝彼〟はそう締めくくると、「随分と長い話になってしまったね。本当に最後まで真剣に聞いてくれてありがとう」と、労り気な視線をそっと向けた。
「いえ……すいません。こちらこそ、凄く興味深い話を聞かせていただき! LGBTについては……やっぱり自分事化するのは難しいかもですが、それでも生きづらい世の中を変えていく、そんな行動姿勢には本当に感銘を受けました」
私はこの一九年で踏み入れたことの無い世界、人々を知ることが出来、内心の興奮が冷めやらなかった。
「感銘だなんて、とんでもない。むしろ、改めてになるけど、今回の菊祭り、その実態を事前にお伝えしてなくて、本当に申し訳なかった」
なおも頭を下げる〝彼女〟に、博人さんが謝る筋合いは無いですよと、必死に両手を振る。
「あの、定期的に湯船に浸かりに来ますから、またイベントがある際は、教えてください。由紀菜さんや他の人とも仲良くなりたいですし、後、今回は博人さんの話ばかりでしたし、今度は私の話もしたいな、なんて」
はにかみ交じりにそう述べると、〝彼〟は少し意外そうな顔を浮かべた後、是非と小さくはにかみ返した。
浜田湯から帰宅すると、私は溜まっていたものを吐き出すように、かれこれ三時間近く、夢中になってピアノを打ち鳴らしていた。
スマホの無機質なタイマー音が午後一〇時のアラームを鳴らす。ハッと我に返った私は、そっと鍵盤の蓋を下すと、そのまま放心の体でソファに腰を埋めた。
〝浜田湯を盛り上げると同時に、そんな人をゼロにする、これが僕の目標でもあり夢なんだ〟
本日浜田湯で出会った様々な人々の境遇に刺激を受けたというのはもちろんだが、とりわけ博人さんの最後の一言が、私の濁った体内に半ば浄化槽的役割を果たした。
彼やそれを支える仲間たちは、多様な人々がより生きやすくなるために、銭湯を通し、その理解に努めているという。それは私にとってあまりにも眩しく映ったとともに、あくまで己の研鑽にピアノに固執する自分が凡夫のようにも感じてならなかった。
ふとソファの端に投げ置かれた三冊の楽譜が視界に入ったが、どうにも手に取る気はおきない。その代わりに私は無意識に、部屋の隅の書棚へ移動すると、その中のいくつかの楽譜スペースへと視線を向けた。
ショパン、モーツァルト、シューマン。そこにはかつて私が弾いた楽譜が、すっかりくたびれた状態のまま、色褪せて並んでいた。その隅で一冊、すっかり埃を被った楽譜が目につく。私は何の気なしにそれを手に取ると、
「あ、これって――」
暫く表紙を眺めた後、私は即座に再びピアノ椅子へと腰掛けていた。
タッ、タタタ、タッタッ、タッ、タッ、ター。バレエ音楽として、あまりにも有名な冒頭のファンファーレ。
彼女らのことをもっと知りたい、近づきたい。その曲は、そんな私と彼女らを繋げる導線のようにも感じられた。と共に、いまなおくすぶっている私にとっての、何か道しるべのようにも思えてならなかった。