二章十三節 チャイコフスキーの胸のうち(二)

文字数 2,409文字


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 薄暗い舞台袖には二脚のパイプ椅子が並べ置かれていた。紺からシャンパン、ピンクへと〝三色〟にグラデーションされたドレスに身を包んだ私は、その端の椅子へ静かに腰掛ける。
 今回繭に頼み込んで借りたドレス衣装は、普段の私なら絶対着ることのない、煌びやかでガーリーな装いだった。今の私が、演奏で身に纏える色は、まだまだ、ここまで。
 エントリーナンバー八番、都立音学大学一年滝香澄――
 ホールアナウンスが同期の名前を告げ、目前の小さなモニターにその姿が映し出される。
 いつもの純白のドレスへと着飾った彼女は、かねてより持ち曲と豪語していたK.シマノフスキ『変奏曲 変ロ短調 作品三』を実に幻想的に奏で始める。
 私の出番まで、残り約十分強。正直、胸の鼓動は張り裂けんばかりに高鳴り、胃の中の消化物は何度も込み上げてくる。
 でもその一方、心の奥底で、この緊張感を妙に、懐かしんでいる自分もいた。あぁ、私は再びあの晴れ舞台に立てるんだ。何百人という観衆を相手にピアノ、いや『ピアノ協奏曲第一番』を媒体に、自己の感情をむき出しに表現できる場。
 不意に埼玉ピアノ音楽祭での石前講師の問答が思い出される。「ホールに立ち、ふと客席最前列に目を向けると、そこにはこれまであなたのピアノに打ち負け、憤怒と嫉妬に駆られる数多の演奏者の群れ……その状態であなたは、最高のパフォーマンスを披露することが出来ますか」
 そう、あの時の答えはつまり、こういうことだったんだ。客席から万雷の拍手が聞こえてくる。次の奏者と入れ替わるように、暗い袖へと戻った香澄ちゃんは、どこかしたり顔にも見えた。
 私はそれを軽く受け流すと、つとパイプ椅子から立ち上がり、舞台の下手へと移動する。目の前に漂う塵芥、隣で冷静に進行を見つめるスタッフ、袖越しに見える演奏とそれに釘付けの観客。
 ドレス衣装から漂う芳香は、うっすら繭のふわりとした香りに満ち溢れていた。そういえば今日の演奏は、先日彼女が提示した質問の、ある種回答にもなるのかな。
 やがて、それまで紡がれていた音色がすぅと途絶え、前の奏者が帰ってくる。
 さぁ、久々のコンクールだ。気負うことなく、いつもの演奏を心がけよう。
 エントリーナンバー一一番、都立音学大学一年小川あけび 演奏曲P.チャイコフスキー『ピアノ協奏曲第一番 第一楽章』
 アナウンスが流れるや私は漆黒の舞台袖から ステージへと歩き出す。一年ぶりの晴れ舞台は、照らし出すスポットライトが妙に眩しかった。それでも私は怯むことなく、深々と一礼し、ゆったりピアノ椅子へと腰掛けた。

 冒頭、あまりにも有名な序奏を経て、第一主題へと入る。ウクライナの民謡を模した軽やかでおどけたリズムを、変ロ短調に沿って大人っぽくそれでいて優美に音を奏でる。
 チャイコフスキーがゲイだということは、一般にはあまり知られていない。十代で法律学校の寄宿生と蜜月を過ごしたのを皮切りに、五三歳で〝病没〟するまで、彼の背後には実に多くの同性愛者がいたという。
 第二主題、しっとりと抒情的にメロディーに彩を添えていく。poco meno mosso、ゆっくりと力強くエネルギーを帯び始めたそれは、次第に圧倒的な旋律となって、会場を彼本来の音へはっきりと包み込んでいく。
 展開部に突入し、本作の最大の見せ所、難関の重音奏法に入る。オクターブ連打! 私は縦横無尽に鍵盤の上を飛び跳ねる。Allegro! molto! maestoso! 一音外れても、私の表現は止まらない! それは一人の高貴なゲイの代弁者として。十の指が求めるように、豊かな音色へと徐々に昇華していく。
 数あるピアノ協奏曲の中でも、とりわけ屈指の本作。しかし一説に、この曲こそチャイコフスキーが一人の同性愛者に捧げた、いわば珠玉の〝レクイエム(葬送曲)〟だという意見もある。
 当時彼には、エドワルド・ザークという一人のうら若き性的対象者がいた。しかし彼は一九歳で、突如ピストルでの非業の死を遂げてしまう。チャイコフスキーとの性的関係が、直接の自殺の原因かその真相は定かではない。ともかくも、愛人を突然失い、失意のどん底に陥ったチャイコフスキーは、ある種彼への、別れの葬送行進曲として、大わらわに本作を書き上げたという。
 もちろん本説は、一つの小さな仮説であり、確信の域を全く超えてはいない。しかし同性愛という如何ともし難い根源的欲望と、それに対する後ろめたさと一人の青年を失わせてしまったことによる葛藤。その偏愛と悔恨が、本作の憂苦、情熱交錯する性格と、あまりにも通じていると、今の私にははっきりと思えてならなかった。
 壮大なカデンツァ。あぁ、また半音、音が飛んでしまう。しかし今の私にはそれすら、些末なことだった。彼の目指したユートピアを、私は一人心地良く揺蕩とう。そこではどんな人々も、何のしがらみも無く、自由に人を愛することができる。
〝彼に対する僕の罪は深い! それにしても僕は彼を愛していた、いや、愛していたのではない、今でも愛している〟
 どうか彼の真の心の叫びが、少しでも多くの聴衆に届きますように。ピアノは壮麗なメロディーを観客に奏でると共に、その楽曲の意図を的確に他者に伝える、一つの表現媒体だ。  
 華やかに堂々と、最後のフレーズがそっとホールにこだまする。あっという間の二〇分だった。ピアノ椅子から立ち上がり、舞台の一歩二歩前に進むと、思いの外、目の前は大観衆の拍手喝采に覆われていた。
 私は深々と一礼すると、ピンクのドレスの裾を翻し、舞台袖へと向かう。しっかりとした足取りに反し、頬は驚く程上気していた。そっと背後で、戦場の口が閉じられる。うん、やれるだけのことはやった。後はこの思いが、あの人の胸の内に響いていますように。相変わらず暗く柔らかい空間に一歩立ち止まると、そこで漸く私は深い息を吐いた。
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