三章九節 I have pride my honest emotions(五)

文字数 3,045文字

 店を出るや「ほんと、なんなの、あいつら」と瑞希さんが鬼の形相で、ありったけの罵倒を喚き立てた。
「ひっさびさに、イカレた奴らだったねー。まぁ最近、浜田湯の〝ぬるま湯〟に浸かりきっていたから。現実世界はまだまだこんなもんだって、再認識させられたわ」
 労わるように彼女の背をさすりながら、大通りへと歩を進める由紀菜さんに、「本当……私の親も周りも、大方はあの二人と、同じような認識で」と、ともちゃんも、我に返ったかのように、暗い影を落とす。
「そうなんですね……てっきり理解のある世の中になってきているとばかりに思っていましたが……井の中の蛙な自分を恥じます」
 寒風が一つ吹き、思わずニットカーディガンの襟を立て直した瞬間、瑞希さんが射るような目をこちらに向けた。また服装の小言を言われてしまう。強張った表情のまま、視線を動かせないでいると、途端に彼女はふっと小さく笑い、
「それにしても、小川さん、さっきはありがとう。あんな大きな声を出せるなんて、少し見直したわ」
 それは出会って初めて見せた、警戒の解いた彼女の素の笑みだった。
「当たり前でしょう。あけびちゃんは、私たちの大切な友達なんだから! というか、あんたが心を開くのに、時間がかかりすぎ――」
 ぎゅっと両肩に手を回し、不服そうな声を漏らす由紀菜さんに、「ちょっ!?……とはいえ〝あなた様方〟ってさぁ。もう少し言い方があるでしょうに」と、よろめきながら、苦虫を潰す。
「なんか三人の関係……羨ましいです。私、こうやって心を許せるような友人が、周りにいなくって。今日みたいなイベントでも、まだまだ皆とは、上手く打ち解けられなくて……」
 少し隔たりを感じてしまったかのように、ぽつりと呟くともちゃんに「何言ってんの! ともちゃんだって、私たちのかけがえのない仲間でしょ!」と由紀菜さんが返すと、〝彼女〟は「そんな……はい、嬉しいです!」と破顔一笑で応じた。
 そんなこんなを話しているうちに、いつしか彼女の最寄りである、新江古田駅へと到着した。
「それじゃあ、皆さん、本日はありがとうございました! 昼間のパレードから先程の飲みまで、本当に夢のような一日でした」
「またね、ともちゃん。あっ、五月にさぁ。私たち、野暮用で二丁目のLGBTイベントに参加すんのよ。ともちゃんも、予定が合えば一緒に行こ」
 瑞希さんが、思い出したように手を差し伸べると、〝彼女〟は「え、予定が合えば、是非行きたいです!」と目を輝かせ、やがて「おやすみなさーい」と煌々と照らす地下道へと去って行った。
「おやすみー……それじゃ、私たちも帰りますか」
 未成年を無事終電前に帰した変な達成感で、私たちも多少安堵しながら、ゆったりと、もと来た道を歩く。「あ、もしかして、うちらが終電逃したかも」特に悲観するでもなく、むしろその事態を楽しんでいるかのような彼女の声音に、「マジで。したらさ、いっそのこと、朝まで飲み明かしちゃおうよ!」と由紀菜さんに抱き着かれ、ノースリーブがずれ落ちる。
「い、いいですけど……由紀菜さん、重い……」
 さてはこの人、酔うとハグ魔だな。再び江古田銀座の入り口へと戻ると、通りは日付を超えたにも拘らず、まだまだ飲みを楽しむ人々の姿が見受けられた。
「確か、あっちにねぇ。雰囲気が良さげなバーがあるんだよ――」
 由紀菜さんに促され、紫の光に照らされた、街灯沿いを歩いていると、駅前へと急ぐ、すらりとした長身の女学生の姿が見えた。
 瞬間、嘘だ、と思った。彼女がこんなとこにいるはずがない。それは一年過ごしたことによる、私の無意識な独りよがりの自負でもあった。
「ん?」
 通路越しに視線が合わさる。初めてこちらに気づいた彼女は、即座に驚いた顔を見せたものの、すぐにそりゃそうかと納得したかのように、
「あれ、あけびじゃん」
 歩みを止め、相好を崩し、こちらへと立ち尽くす。その相手は、私のソリストでもあり、都立音大唯一無二の友でもある、フルート科二年、本田繭であった。

「え……なんで繭、こんな時間に、しかも江古田なんかにいんの――」
「いや、最近むさおんに、友達が出来てさぁ。その子と、さっきまで、そこで飲んでたの。一応あけびにも、その旨、LINEしてんだけど、気づかなかった?」
 急な遭遇にもかかわらず、いつしかいつもの口調でやれやれと両手を広げる彼女に、私はすかさず自分のスマホを眺める。確かにホーム画面には、三時間前『急遽、江古田に来たんだけど、良さげな飲み屋知ってる?』と通知が届いていた。
「ごめん、お店に入っていて、全く気付かなかった。ってか、それならさ、もう少し早く連絡……」
「だから急な予定だったんだって……それより、あけびも後ろの、お二人様と飲みの帰り? はじめまして! 都立音大フルート――」
 変わらぬ調子で、陽気に挨拶をしかけた瞬間、彼女の表情から一気に血の気が失せるのを見逃しはしなかった。
「繭? どうし……」
「こんばんは! あけびちゃんのお友達かな。あ、もしかして! よくお名前が挙がっている繭ちゃんって、この子? 私――」
「レズビアン」
 普段の彼女からは想像もつかない、感情の消えた一言に、私の鼓動が途端に鋭く警笛を鳴らす。
「え……ちょっ」
 混乱する私の視線が指差す先には、手を繋ぐ瑞希さんの右手首。先程しまわれていたはずの虹色のブレスレットが、燦然と暗がりに瞬いていた。
「あの……繭、落ち着いて。ちょっと、聞いてほしいの。そもそもレズビアンのこと……」
「え……えぇっとぉ、お二人ってもしかして、こっちの方なんですか……って、あけび。ひょっとして、この前、あんなに熱心にチャイコを弾いていたのも――」
 彼女の心底引いた表情に、私は泣きそうな顔で歩を近づけていた。「待って、これまで話をしなかった私が悪いんだけど。でも、聞いて、そもそも私がチャイコを弾いたのは――」
「気持ち悪い」
 それは、私が親友に対し、最も聞きたくない一言であった。するりと出てきた、彼女の根源的な拒絶に、私は先程のような、啖呵の切った返答が一切発せ得なかった。
 即座に、彼女が我に返ったかのように、ハッとした表情へと転じる。
「あ、あぁ。ごめん……なさい。だけど私、本当に――」
「繭、待って!」
 瞬間、駅前へと駆けて行く彼女に、私は慌ててその背を追う。背後の二人の表情は、とても怖くて視認など出来なかった。
 池袋線の終電は終わっている。大丈夫、追い付ける。そう、高を括っていたはずが、運悪く駅前のロータリーでは、乗車待ちのタクシーが整然と跋扈していた。
 彼女はその一台に飛び乗ると、すかさず扉を閉め切る。なんで、どうして。ようやく追い付き、祈るように顔を歪めた私に対し、彼女も開けたサイドガラス越しに、初めて見せるような厳しい表情で、
「あけび……さっきのことは全て見なかったことにするから、これまで通り、伴奏よろしくね。私、同性愛者だけは本当無理。その理由は……また、いつか話すよ」
 おやすみ、そこだけ普段の優しい彼女の声のまま、とっととこの場から去りたいとばかりに、すかさずサイドガラスが閉じられる。
 タクシーが出ていくや、私は途方に暮れたように、駅前に立ち尽くしていた。先程の飲み屋とは比べるべくもなく、まるで自身が否定されたかのように、胸が苦しく滂沱が落ちる。ニットカーディガン越しに露わにした黄緑のノースリーブには、いつしか黒い汚れが、ヘドロのようにびったりと染み渡っていた。
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