三章五節 I have pride my honest emotions(一)

文字数 1,858文字

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 課題曲の最後のワンフレーズを弾き終えると、手指がじっとりと汗ばんでいることに気づく。
 私はいつの間にか、火照った顔を冷ますべく、カラカラっと網戸を開ける。「GW二日目は初夏のような、汗ばむ陽気となるでしょう」朝方、お天気アナウンサーが予報していた通り、見上げる空には、早くも夏の気配を感じさせる入道雲が、一面を覆っていた。
「今頃、由紀菜さんたちは、パレード会場に集まっているのかな」
 譜面台横の置時計に目を向けると、十一時を少し過ぎたところであった。私はそっと鍵盤にカバーをかけ、蓋を閉じると、ゆっくり出掛ける準備に取り掛かる。
 先日衣替えしたばかりの衣装ダンス。暫し逡巡した後、私は先週、繭に急かされて購入した、黄緑のノースリーブと柄スカートを手に取る。
「まさか、こんな早く日の目を見ることになんて……どうせ、着替えるとはいえ、せっかくのイベントだし、これくらい良いよね」
 着替え後、姿見を覗くと、そのあまりにも垢抜けた姿に、思わず苦笑してしまう。この前のグラデーションドレスといい、最近随分攻めた衣装をするものだなと、冷静な自分の心の声が聞こえるようでもある。
『貴重な学生生活、青春を謳歌しなさい』
 同時に、先日の木谷先生の言葉が蘇る。そうだ、せっかく東京の音楽大学に通っているのだし、オシャレ磨きも表現者にとって、重要なファクターの一つだ。
 私はもう一度、全身を隈なく眺める。栗色がかったロングヘア、母親譲りの整った目鼻立ちと面長の顔、色白な肌に華奢な体格。正直、ルックスは平均かそれよりも若干上くらいの認識のつもりではある。
 そういえばかつて、繭が一度だけ、自分の顔立ちを褒めてくれたことがあったな。あれはもう、遥か遠い記憶のように思える。
 私は姿見にニコリと微笑み、軽やかな足取りで、化粧箱を手にする。と、その時、ベッドに投げ出していたスマホの通知音が大きく響き渡る。なんだろう、訝し気にそれを手にすると、「緊急事態!」焦りマークと共にそう記された博人さんの一言が、押し迫るように大きく浮かび上がっていた。

「んーと、そっちの緑のやつは、薬湯の手前に置こうか! あと、さっき露天に置いた行燈だけど、やっぱりオレンジのものと取り換えよう」
 開店前の浜田湯内浴室。いつもの作業用の、グレーのスウェットを着込みながらも、すっかり粧し込んだ女性の博人さんと共に、本日のイベント作業に邁進する。
「あ、はーい! ん、このオレンジのLED、電源入れても点かない……接触不良かな」
「マジか。そしたらそれは一旦置いといて……オレンジ、確か売り切れで予備買ってないんだよね――」
「ひろちゃーん! 今ガス業者さんが、お釜直ったってー! 申し訳ないけど、相手してあげてー!」
「はーい、今行くー!」
 千恵さんの掛け声に、慌てて裏手へと駆けて行く〝彼女〟を気にしながら、私は緑の行燈を手にする。よりにもよって、今日に限って、ガス機器の不具合が発生するなんて。
 幸いすぐに業者を手配することが出来、すぐに治る旨の言質は取ったものの、初動で大幅に遅れてしまった。
 手前の浴槽から、とめどなくあつ湯が迸ってくる。どうやら休業という、最悪のシナリオはなんとか免れたらしい。
 しかし。私は頭上の時計に目をやる。一六時まで残り一時間半、はたして開店に間に合うのだろうか。余裕を持った準備時間のはずが、気づけば押しに押している状況に、私は溜息を吐きながら、改めてオレンジLEDの電源を入れ直す。
 すると、ガラス扉の先、脱衣所の方から、騒々しい声が聞こえた。博人さんと業者の方だろうか。私は怪訝な顔のまま、扉に視線を向けると、
「あけびちゃん、お疲れー! うわぁ、随分とっ散らかってるねー……」
「あー、この行燈で虹色を演出するって訳ね。博人、柄にもなく、面白いこと考えんじゃん」
 そこには、虹色のタオルを肩にかけ、「I HAVE PRIDE」の文字Tシャツを着こんだ四人の姿があった。「あれ、今日は夕方までパレードのはずじゃ」訝し気に、首を傾げる私に、「ひろから、浜田湯ピンチの連絡があってさ。さすがに二人が作業する中、僕たちだけ、手伝わないのもどうかと思ってね」と誠さんがそっと肩をすくめる。
「お湯はどうやら、出るようになったんでしょー。だったら皆で、パパッと準備を済ませちゃおうよー!」
 由紀菜さんの明るい掛け声と共に「よし、やるかー」と四人が駆け込んでくる。私は思わぬ助っ人の来訪に、「はい!」と笑みを零しながら、完成形の図面を広げた。
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