三章一節 番頭はじめました!(一)

文字数 3,049文字


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 四月も一週間が経過したにもかかわらず、千川通りの桜並木はしぶとく、その栄華を咲き誇っていた。
 どこか懐かしく、それでいて胸高鳴る春の暖かい香り。西武線の終点駅を降りると、ぞろぞろと楽器を持った学生がホームへと繰り出す。去年のこの時期は、その光景に度肝を抜かれたものだが、今はすっかり慣れ親しんだ体で、彼らと共に通い馴染んだ通学路を歩む。
 残り三年を切った音大生活。それはイコール、ピアノと真剣に向き合うタイムリミットでもある。
 雑司ヶ谷の寺社を抜けると、住宅街の合間にぽっかりと、ガラスとコンクリ板のストライプな外観が姿を現す。三年次で履修科目の大半が、中目黒のキャンパスへと移るため、この学び舎にいたっては、実質あと一年足らずの付き合いだ。
 洗練されたかご細工のような校舎は、相変わらずゆったりした世界に包まれていた。しかしその大らかな無機質の建物は、ややもすればその僅かな学生の時間を簡単に奪い去ってしまう、どこか油断ならない存在に思えてならなかった。

「春休み、いかがでしたかー。ねぇ、小川さん。もしかして、この間で、恋人なんて作っちゃったりしてさ!」
 二年次最初のレッスン。春の陽気にでも当てられたかのように、担当の木谷先生は相変わらずの機嫌の良さだった。
「先生、新年度も一向に調子が良いですね……そんなに自分の門下生が、方々で取り上げられることが嬉しいですか――」
 去年の夏、共に埼玉ピアノ音楽祭に参加した笹川先輩は、この冬ドイツのコンクールにて無事結果を残し、念願のマイヤー・ハインリヒから弟子入りを認められた。
 あのドイツが生んだ巨匠、ハインリヒの直弟子! このことが知れ渡るや、広報課を筆頭に学内は大盛り上がりをみせ、やがて今春から拠点をドイツに移すべく、一時帰国を果たした彼女は、退学手続きもそこそこに、やれインタビューだのお別れ演奏だの依頼が怒涛の如く殺到している。
 なおそれと比例して、今回の一件を機に、木谷優一の他の講師からの株も大幅に上昇した。笹川なんて、入学当初は大したことなかったはずだが。やっぱりあの人は、生徒を化けさせることに関しては随一ね。周りからの改めての賞賛の声に、木谷優一は一層鼻高々であった。
「何を馬鹿なことを言っているんだ。僕が自分の調子に浮かれて、個の生徒のプライベートにまで、お節介を焼いていると思ったら、それは随分浅はかで、そんな単純思考に至った君に、ひどくがっかりだよ。あけび、君はこの前の反省会で僕が述べたことを、すっかり忘れてしまったのかい?」
 心底呆れたとばかりに両手を上げる彼の一言に、私はおもむろに居住まいを正す。そうだ、春の陽気ですっかり気が緩んでいるのは私の方だ。
 脳裏にこびりついている先日のコンクール後の記憶。私は唇を噛み締めると、そんな己を恥じるように、目の前の真っ黒な筐体をそっと眺めた。

 全演奏が終わって暫く後、厳粛な審査の下、もたらされた二次予選の結果は、小川あけび落選であった。
「ま、あれだけ音を間違えていたら、通過は厳しかっただろうね。あくまでコンクール、いかに正確に弾くかが重要で、表現なんて二の次だ」
 翌週の学内での反省会。普段の正装とは異なるネルシャツ姿のラフな木谷先生の一言に、私はむべなるかなと、神妙に頷く。
 彼も彼なりで私の本意を理解しているのか、それ以上指摘をせず、窓辺へと歩を向ける。
 春休みに入った校舎は、しんと静まり返っており、建物全体がどこかまどろみの状態にあるようであった。
「さて、それは良いとして」
 頭上には鉛色の空が一面を覆っており、冬真っ只中の冷たい世界がなおも広がっている。
 彼はそこでくるりと振り向くと、ここからが本題とばかりに、表情を変える。彼の顔色は常日頃の、相手の不安を和らげる、持ち前の微笑を湛えていたが、その声音は感嘆とある種見直したという驚きに包まれ、
「小川さん、随分面白いことをやってくれたねぇ! 最初、チャイコフスキーを弾きたいと言った時は、どういう了見かと困惑したけど、つまりはそういうことか。
 しかし妙なのは、小川さんからそれまで、そんな〝空気〟を全く感じなかったんだよねぇ。以前も軽く教えてくれたけど、差支えなければ今一度、あの曲を弾くに至った経緯をご教示いただけません?」
 あくまで任意だけど、とさらりと言っておきながら、その顔はイギリス紳士のような狡猾さが透けて見えた。まぁ、別段、恩師に隠す所以もない。私はこの秋から江古田の銭湯通いをしていること、そこで出会った博人さんとLGBTの人々、〝彼〟の過去と目標、夢に向け浜田湯で行っていることについて、ざっくばらんに一通り説明した。
「……ふぅん、なるほどねぇ。それで〝彼女〟たちを一層理解したくて、同じ同性愛者として知られるチャイコの曲を弾いてみたと」
 彼はふむと顎に手を当てると「それで、弾いてみてどうだったい?」と飄々とした表情のまま、丸眼鏡の奥の瞳をじっと見据える。
「はい……正直、チャイコフスキーの胸のうちは、弾いていてもなお、うまく腹の中には落とし込めませんでした。それでも……私なりの想いは、曲に込めることが出来ましたし、その真意も、聴衆の皆様に少なからず伝わったようにも感じました。その意味では、個人的には悪くない演奏だったかなと思います」
「……なるほど。あけびがそう言うのなら、今回コンクールのお膳立てをした甲斐があるというものだ」
 それについて彼は肯定でも否定するでもなく、隣のピアノ椅子へと腰掛ける。「さて、それじゃ技術面の反省に……と言いたいところだけど、もう一個だけ聞いてもいいかい」
 なおも厳しい空気を浮かべたまま、彼はその整った顔をじっと自身に向ける。「どうぞ……先生?」長い沈黙の後、不意に気まずくそう呟くや否や、彼はふぅと一つ息を吐き、
「先程話してくれた辻無さんという番頭さん。この方は、今回のコンクールを聞きには来てくれたのかな?」
「えっとー……はい、私の招待に応じて、千恵さんと二人で来館してくれました。演奏が終わった後、たまたま遭遇する機会があったのですが、私の思いを〝彼〟はいち早く気づいてくれて、そのことが今回のコンクールで、何よりも嬉しかったです」
「そっか、何よりも嬉しかった、か――」
 そこで彼は目線を自身の鍵盤の上へと戻すと、「技術面のことはこの後述べるとして、今後の課題として、君が何よりも経験しておくこと」といたく真剣な声音のまま、
「それはね、恋をすることだよ。大学一年が過ぎたにもかかわらず、あけびは未だに浮いた話が全くないじゃないか。ピアノに打ち込み、進路に思いを巡らすのもいいが、貴重な学生生活、青春を謳歌しなさい」
 それまでとは全く脈絡の無い、予想だにしない発言に、外目も気にせず、思わずぽかんと口を開けてしまう。
「先生? え、どうしたんですか急に……恋って、え、青春?」
「さて……それでは今度こそ、技術面の反省に入らせてもらうよ。どれだけ表現に拘っていたとはいえ、あまりにもミスが多すぎだ。まずは展開部、序盤のオクターブ――」
 私の発言なんか意に介さず、彼はそのまま『ピアノ協奏曲第一番』の該当箇所をさらりと奏でる。
 私は混乱する頭を何とか切り替え、師の旋律を一音も漏らすまいと脳内に叩き込む。
 直前の指摘に気勢を削がれたとはいえ、本作の難所を自然に弾きこなす様は、まごうことなき、私が尊敬してやまない担当講師、木谷優一の姿であった。
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