四章六節 地に立つというこの証(六)

文字数 2,128文字

「お、もう、そろそろ一五時か。本番、見に行ってみる?」
 サウナ用のタオルを干し終わり、小春日和の空に少し黄昏ていると、ボイラーの調整を終えた宮田さんが、タオルを肩にかけ、通りを指さした。
「あ、本番、もうすぐなんですね。でも、私たち、見に行っても良いのでしょうか?」
「うん。辻無さん、手が空いた時には、見に来ても良いよって、言っていたから。レポーターのアナウンサー、俺の好きな高山千夏なんだよねぇ。銭湯が趣味とは言っていたけど、まさかうちにきてくれるなんて――」
 彼はそう述べると、心底嬉しそうに、顔元の汗を拭う。職人肌かと思っていたけど、意外とミーハーなんだな、この人。口笛を吹きながら、表へと向かう彼に続き、私も高鳴る鼓動を胸に、その後を追った。
 先程よりも一層関係者の増す現場ではまさに、千鳥破風の屋根をバックに、高山レポーターと博人さんによる本番が開始されたとこであった。
『それでは、お次は練馬区の「浜田湯」さんにお邪魔しまーす! ここの番頭の辻無さんはなんと、銭湯経営の傍ら、ご自身がXジェンダーとして、この浜田湯を拠点に、LGBTイベントを開催しているんですよね!?』
『はじめまして、辻無と申します。はい、この浜田湯は今年で七一年目になりますが、僕が継いでからは「すべての人の癒される場」をモットーに、不定期イベントを開催させていただいています』
『なるほどー、「すべての人の癒される場」ということはつまり、LGBTQの皆様だけでなく、それ以外の方々も、参加可能という訳ですか?』
『もちろんです。例えば、去年の重陽の節句では、僕の友達とこの江古田商店街の皆様で、菊の湯を開催いたしました。他にも今年の六月は、常連の銭湯愛好家さんによる梅祭りも行わせていただきましたが、その際、行った青梅風呂は、実に多くの利用者様に、高評価をいただきました』
『青梅風呂! なんて気持ち良さそうな薬湯なんでしょう……すいません、ついうっかり心の声が……さて! そんな浜田湯さん内部なんですが、まずは味のある暖簾を潜って――』
 と、博人さんの案内の下、レポーターは休憩所の壮観や浴室内部の様子を、実に楽し気に紹介していった。
 しかし私は、その紹介にいささか違和感を覚えた。確かに、博人さんとレポーターのやり取りは、入念に準備が行われていたのか、終始和やかに交わされた。ただ台本がそう書かれていたのだろう。レポーターの質疑の随所随所に「こういった脱衣所で、トランスジェンダーや地域の人々とのトラブルとかありませんでしたか?」「銭湯によっては、LGBTの入浴を禁止しているところもありますよねぇ」といった不躾なものも多く、その度に博人さんは、全く自然な笑みで明言を避けていた。
『さて、こんな趣深い銭湯で、定期的にイベントが開催されているなんて、毎週のように通いたくなりました! ちなみに次回ですが、どんなイベントを開催予定ですか!?』
 岩場を備えた自慢の露天風呂や都内ではすっかり珍しい裏口の煙突は全く触れられず、二人は再び浜田湯の正面で相対していた。
『はい、直近としましては。来週酒粕の湯を行います。一層寒くなってきましたし、皆様是非お越しになって、身体ポカポカ、お肌スベスベになってください』
『うわぁ、それは絶対、あったまるやつですね! 私もこっそり、浸かりに来ちゃおうかな。なんて……ということで本日は、練馬区の「浜田湯」さんから中継でした! 引き続きカメラは埼玉県へと切り変わりまーす、なっちゃーん!』
「……はい、OKでーす!」
 ディレクターの掛け声で、それまで覆われていた緊張の膜が一気に破れる。数十人のスタッフが一斉に一息つき、肩を下ろす様は、どこか演奏会後の楽屋裏と似ていた。
「いやはや、生で見る高山アナ、めっちゃ可愛かったなぁ。それにしても辻無さん、本当凄いですね。生中継で、あれだけ距離が近いにもかかわらず、全く自然に話せるなんて。僕なんか想像しただけで、足が震えてしまいます」
 持たざる者が持つ者に対する憧憬というか感嘆した声に、初めて隣に宮田さんがいたことをようやく気づかされる。
「そうですよね、女性に対する距離感は本当ピカイチですよね。自然なフリも一層、磨きがかかっていたというか……」
 思わず零れ出た本音にハッと振り向くも、幸い彼は聞いてたか否か「うーん」と陶然とした表情で、〝推し〟を見つめ続けるだけであった。
「さて、そろそろ私戻りますね! 開店まで残り一時間切ってますし、ぼちぼちお湯張りを始めちゃわないと」
「あ、それならさっき、ボイラーの温度少し上げちゃったから、いつもより多めにお水入れてください。後、ろ過機の確認ももう一度って、あぁ! もう少し余韻に浸っていたかった!」
 このままでは、惨めな己に押し潰されそうになった体は、半ば防衛本能のように、再び裏口の釜場へと動いていた。
 去り際、うっすら視線を向けると、博人さんは、高山アナやディレクターと、実に満面の笑みで談笑し合っていた。
 その表情は、無事撮影が終わったことに対する安堵か。それとも徹底した他者に対する、笑みで保たれた壁か。私にはどう見ても、それを判別づけることは出来なかった。
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