五章三節 即興曲 FP63 第1番~第10番(三)

文字数 2,676文字

「さて、それでは『小川あけびピアノリサイタル』の始まりです!
 お手持ちの二枚のポストカードをご確認ください。本日演奏する曲は、ロシアの作曲家、ピョートル・チャイコフスキーのバレエ音楽『くるみ割り人形 Op七一』より一部抜粋及びフランスの作曲家、フランシス・プーランクのピアノ曲『即興曲 FP六三 第一番~第一〇番』となります。
 まず初めに一曲目の作曲者と曲紹介をさせていただきますが……」
 彼女の説明に、それまで飲食に興じていた観客がフォークやグラスを置き、代わりに私たちが事前に用意した、二枚のポストカードを手に取る。
 先月から練習の合間を縫って、二人で作成したプログラムは、仙台に暮らすデザイナーが見れば失笑する程、お粗末なデザインと作りだった。
 それでも、簡素な挨拶とプログラム内容を除いて、出来る限り作曲者と曲紹介は詳しく記させていただいた。
 それは、今回のクラシックライブの、ある種、最大の趣旨だったからだ。
「……という訳で、それでは一曲目、お聞き下さい」
 繭の丁寧な紹介が終わり、室内が静寂に包まれる。私は考える間もなく、気づけば第一音をはじいていた。
 『くるみ割り人形 Op七一』より『行進曲』『金平糖の精の踊り』『花のワルツ』。くるみ割り人形の中でも、とりわけポピュラーで、演奏映えする三曲をチョイスした。
 と、同時に。鍵盤の端から端までを駆使したファンファーレを奏で、素早く楽譜を入れ替える。その間、客席から感嘆と困惑の入り混じったどよめきを、僅かに感じ取った。
 実はこの三曲は、クリスマスソングでもあることから当然、先月のイベントスペースでも披露していた。
 しかしその時紡いだのは、小中学生向けの簡易版。対して今回の選曲は、現代ロシアを代表するピアニスト、ミハイル・プレトニョフが編曲した、いわゆる超絶技巧と呼ばれる難曲だ。
 大団円とばかりに、美麗に最後のワンフレーズを弾き終える。即座に至高の芸術に触れた後に生じる、あの熱の入った称賛が室内に響き渡る。
 よし、とりあえず前半は終えられた。後はこのまま。私は紅潮した顔のままお辞儀をすると、少しほっとした顔の繭から、器用にマイクとポストカードを受け取り、
「皆さん、こんにちは。都立音楽大学ピアノ科二年の小川あけびです。改めて本日は、貴重なお時間を、私のピアノリサイタルにお越しいただき、ありがとうございました」
 合わせて会場提供等、ハコをセッティングしてくれたお店の皆様にも、厚くお礼を申し上げます。橋本さんらスタッフに一礼した後、私はこの時、初めて正面を一瞥する。
 暗がりの客席は、恭介さんやともちゃん、宮本君等、事前に招待もしくは伝え聞いていた観客の他、お店の宣伝を通し来場した一般客の姿もちらほらあった。
 彼らの満足そうな顔に、私は少しだけ肩の力を抜き、笑みを浮かべる。
「さて次に弾く曲は、フランシス・プーランクのピアノ曲『即興曲 FP六三 第一番~第一〇番』です。プーランクは、フランス六人組の一人として、声楽曲或いは教会音楽の分野において優れた功績を残しましたが――」
 と言いかけ、ふと右のソファ席を眺め、思わず息を呑む。え、なんで。どうして、彼女がここに。
 視線が重なった相手は、いたずらのばれた子供のように、ニヤニヤ笑いながら、プログラムを振りかざした。
 私はせめてもの抵抗とばかりに言葉を続ける。幸い、プログラムの解説のページをまたいでいたため、この間の無言に、観客が不審を抱くことは無かった。
「……正直、同国のラヴェルやサティと比べると、あまりメジャーな作曲家ではありません。実際私も『三つの無窮動』や『二台のピアノのためのソナタ』を微かに聞いたことがあるぐらいで、これまで一度も弾いたことがありませんでした」
 はにかみながら、正直に白状すると、客席からうっすら笑いが漏れる。「半年前には知らなかった曲を、本リサイタルの曲目に選んだんですね!」その場の空気に応じた繭の合いの手に、「無駄な茶々入れはやめて」といつもの調子で彼女を牽制する。
「でも……そうなんです。実は昨年の秋頃、故あって本作を知る機会があったのですが、それがその当時……いや今もなお、私に影響を与え続けている作品でして。
 詳細は……ちょっと言葉ではまとめづらいので、演奏を通しお伝えさせていただければと思います。曲紹介は、既にこのプログラムに記していますので、それを参考に皆様の方で感じ取っていただければと」
 そこで私は言葉を区切り、今一度場内を見回す。目の前の美紅ちゃんは、さすがに曲間が長すぎたのか、翔子さんがあやしていて、その奥ではともちゃんと由紀菜さんが熱心にポストカードを眺めていた。
 隣の卓では、三浦君と宮本君が何やら真剣そうに会話をしていて、その横で木谷先生がこの場そのものに価値を見出しているよう、実に微笑まし気に正面を見据えていた。
 そして最後に、二つ隣の恭介さんと宮田さんがいる卓、ピンクのニットに少しだけ女性寄りの出で立ちをしてきた〝彼〟は、まるで自分も出演者の一員であるかのように、張り詰めた表情のまま、熱い視線を向けていた。
 今回のポストカードにおいて、いわゆるその類のことは記していない。しかし〝彼女〟ならきっと。かつての若手パフォーマーピアノコンクールと同じように、この作曲家について、一通りのことは調べているのだろう。 
 でも博人さん、今回はそれだけじゃないの。要素の一部ではあれど、結局はきっかけに過ぎない。いや、ティタローザが、私に本曲を薦めたその真の意味。
 私は気合を入れ直すように、手汗の滲んだマイクを握ると、おもむろにポストカードをしまう。そして精一杯の感謝を込め、
「それでは引き続き、素敵な飲食に手を伸ばしながら、どうかごゆるりと、演奏をお楽しみください!」
 やわらかい声音で頭を下げると、再び場内から期待の拍手が沸き起こった。
 正直、繭の軽やかな聞き取りやすいMCと比べると、私の鼻にかかった挨拶は実にたどたどしいものであった。
 それでも自分の文字や言葉を通しての思いは、私なりに伝えることが出来た。後は音楽に気持ちを込めるだけ。
 ピアノ椅子に舞い戻ると、先程より一層、観客それぞれの思惑の入り混じった視線を、具体的に一挙に感じる。
 しかし私は、私だけの思いを込め、紡ぐだけだ。それをどう受け止め、どう感じるかは、それはもう私の範疇ではない。
 尊敬すべきMCに首肯し、彼女が最後の挨拶を述べる。それに沿って私は鍵盤に指を添える。さぁ、本番はここからだ。
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