四章七節 地に立つというこの証(七)

文字数 3,745文字

 その晩は久々に、由紀菜・瑞希カップル、恭介・誠カップルが浜田湯に集い合い、本日の撮影の様子を興奮した顔で尋ね合った。
「あー、あけびちゃん、生の高山アナを見ることが出来て、いいなー! 博人には、関係者以外は立ち入り禁止って、断られたけど、私も間近で高山アナを拝みたかったわぁ」
「いやぁ、私のいた位置からは、結構距離がありましたよ……でも、宮田さんは彼女のファンと仰っていましたが、由紀菜さんも、高山アナご存知なんですね?」
 すっかり慣れ親しんだ番台で、帳簿を確認しながら、おぼろげに答える。閉店して程なく、既に宮田さんは先に上がっており、一度限りのこの六人の集いが、私は何にも増して幸せであった。
「え、もしかして、小川さん。高山アナ知らない?」
 瑞希さんの面食らった顔に、私が気圧される形で一つ頷くと、誠さんが「有名も何も、人気女子アナ五本の指に入るくらい、売れっ子アナウンサーですよ」と、からかうように缶チューハイを呷った。
「そうなんですね……私、昔から、流行りの芸能とかは、ほんと疎くて……」
「まぁ、でも僕はあけびちゃんと同じだよ。人気アナウンサーとかどうでもいいけど、大手テレビの生中継がどういう風に撮られているかは、一目見ておきたかったなぁ。ねぇ、博人。台本って、どれくらい忠実だったの? アドリブとか結構あった?」
「ん? あぁ……いや、ほとんど台本通りに、事を進めてたよ」
 ソファの中央に座り、ぼんやり外の様子を眺めていた〝彼〟は、恭介さんの質問に、言葉少なに返す。先程からの質問責めに疲れ果てたのか、〝彼女〟の表情は終始暗いままであった。
「ひろ、さっきから、少し浮かない顔しているけど、大丈夫? もしかして今日の撮影で何かあった?」
 意を決したように誠さんが尋ねると、〝彼〟は少し躊躇った後、
「うん……今回の撮影さ、事前には『浜田湯の良さを多くの人に伝えさせて下さい』って局の人は言っていたんだよね。でもいざ本番となったら、僕やイベントのことばかり取り上げて、肝心のお風呂の方は本当必要最低限だけ。もちろん、宣伝されること自体凄くありがたいことなんだけど、それがちょっと、ね」
 注意深く言葉を選びながらも、はっきりと自分の気持ちを彼ら仲間たちに吐露すると、
「なるほどねー……でもメディアに取り上げられる以上、それは仕方ないよ。私も編集者の立場からすれば、なんとかして相手の独自性・気になるところを引き出したい訳だし。それが一つでもあれば、後はそこを深堀りしたい訳よ」
 少し心苦しいという表情ながら、それでもはっきりと述べる彼女の返答に、〝彼〟は一瞬考え込んだ後、「だよね……まぁこれでうちの集客が更に上がれば、結果オーライな訳だし」と自ら納得したように、缶ビールをぐっと飲み干した。
 私はその間、無表情で〝彼女〟を眺める瑞希さんが、やや気掛かりであった。やがてこの話は終わりだとばかりに、由紀菜さんがとりわけ明るい口調で、
「さて、それはそうと、そろそろクリスマスの予定も考えようよ! 今年も去年と同じ誠の友達のイベントスペース借りて、盛大に騒いじゃう!?」
 その一言を皮切りに、それまでの重い空気が取り払われ「今年もそんな感じで良いんじゃない」だの「そういえば、今回のクリスマス、ともちゃんも来たいんだって!」だの、ダラダラと和やかに、聖夜の計画が話し合われた。
「もちろん、あけびちゃんも参加メンバーに入っているからね!」
 帰り際、赤ら顔で自然に放たれた彼女の語に「あー、その時期は、丁度年明けの演奏会と伴奏練の追い込みかも……」と眉を落とす。 
 すると「えー、クリスマスの夜ぐらい、オフにしちゃおうよー。その日休まないで、いつ休むのさー」と恭介さんが心底寂しそうに声を荒げた。
「わかりました……それじゃ……顔出す程度ですが」
 苦笑いで応じると「本当!? 全然、少し来てくれるだけでも嬉しいよ!」と由紀菜さんはパアッと顔を輝かせ、やがて五人は満足したように去って行った。
 一人残った私は、ようやく書き終えた帳簿を閉じる。静謐に満ちた店内。そういえばクリスマスは、クリスマス会や年明けの発表の練習が重なり、高校の彼氏がいた時さえも、わぁっと遊んだことは一度も無かったな。
 いや小学生までは、帰宅の遅い親に代わって、祖母や姉とご馳走やらゲームを楽しんでいたっけ。普段は優しい癖して、祖母はトランプ遊びになると、勝ちにこだわり続けた。追想と一抹の寂しさを覚え、ふと先程まで博人さんが座っていたソファを眺める。
 私はそこで曖昧だった考えを確信に変えると、おもむろに立ち上がり、散らばった卓の片づけに取り掛かった。でしゃばるのは良くないのかもしれない。でも、性別なんか抜きにしても、一人の人間ならきっと。

「あぁ、ごめん、戻ったら片付けるつもりだったのに。わざわざ綺麗にしてくれて、申し訳ない」
 明日は定休日のため、必要最低限の閉め作業を終えソファに座ると、丁度四人を駅まで見送った博人さんが、肩を竦ませながら帰ってきた。
「はい、これ。お酒の方が良かった?」
 いたずらっぽい笑みで、外の自販機で買ったミルクセーキが手渡される。私は「ありがとうございます」とそれを受け取った上で、一つ覚悟を決め、
「あの……博人さん、結構無理してません? 私がとやかく言うべきではないかもしれませんが、千恵さんが亡くなってから、なんかこう、少し生き急いでいるように見えてしまい」
 今日依頼されていたバイトは、〝浜田湯の営業時間業務〟だけだ。その気になれば、由紀菜さんたちとお酒を飲んで、一緒に帰ることも出来たはずだ。
 しかし私はそれを選ばなかった、〝彼〟もその意図を理解しているのだろう。艶があるボブカットを無意識にいじりながら「急に、どうしたの……無理していないと言えば嘘になるかな。でも今は多少きつくても、走り続けなければならない」と先程よりも少し他人行儀に、ソファの片隅に腰を据えた。
「でも……同じ走り続けるにしても、今は博人さんに見合っていない走りのように見えます。それまで長距離を程良いラップで刻んでいたのを、急に短距離を、まるで歯を食いしばって走っているかのように……」
「何が言いたい」
 瞬間〝彼〟の余裕の消えた、無機質な声が耳元に届いた。〝彼女〟の表情には、他人への気遣いという壁は消え去り、代わりにその素顔は恐ろしく区別のつかない、得体の知れない存在であった。
「何がって……」
 そこで私はふと我に返った。もしかして私は今、とんでもないことを口にしているのではないか。
 性に苦労したことの無い、知り合ってまだ一年半にも満たない自分が、一介の利用客・バイトの立場から、博人さんや浜田湯の経営に切り込むなど、全くのお門違いなはずだ。
「あ、いや……すいません!」
 博人さんと相対出来ず、慌てて視線をさまよわせると、咄嗟に隣の冷蔵庫が目についた。
 よく見るとそれは、売上の好調な飲み物が丁度目線に合わせて、賞味期限順に並べられていた。下には手書きの新商品の文字。宮田さん、太田さんのいずれかによるものであろうが、少なくとも私には、決して行き届かない点であった。
 うん、間違いなく私は、このお店には必要とされる存在足りえなかった。それはイコール、自分は博人さんを、サポート出来ないことを意味した。
 すっかり分かっていたものの、改めて突き付けられた悲しい現実に、私の内心は一気に煮えたぎった。激情の波は全身を押し寄せ、
「どうして……どうして、一人抱え込んでんですか!? 傍から見ても辛そうな様子は、まるわかりなんですよ! 私にじゃなくても、せめて……せめて、恭介さんや皆さんには、本音ぐらいぶつけてくださいよ!」
 深夜の静寂を切り裂くように、私の叫びがこだましていた。自分でもこんな声が出るんだと驚くほど、それは絶叫に近かった。
 唐突な激白に、博人さんの表情は、多少の困惑を浮かべていたものの、相変わらずよくわからなかった。まぁ、いいや。どうせ、これでお別れだ。最後の浜田湯バイトで大きな爪痕を残し、私は再びピアノに閉ざされた世界へと帰る。
「……そこまで僕のことを気にかけてくれていたなんて……ありがとう。でもね、だからこそだ……恭介や皆と同じくらいに大事な空間だからこそ、僕はこの安らぎに満ちたここを、今度こそ失いたくない」
 決意に満ちた声音に、私はもう二の句は継げなかった。「当たり前じゃないですか」内心に呼応した陳腐な一言を吐き捨てると、私は「お疲れ様です」と浜田湯を後にした。
 晩秋の寒さ増す帰り道、今回は不思議と涙は零れなかった。既に分かっていたことである。あの人が大事なものは。もう懸けているものが、私と〝彼〟とでは全く違うのだ。
 心の奥底はある種清々しかったが、それでいて一層、空虚であった。満月がほのかに、夜の世界を照らし出す。その光を押し隠すように、私はもう一つ、夜空に吠えた。

    6

 事件は、それから三日後に起こった。始まりは些細なトラブルだった。つまり先日のテレビ放送で浜田湯を知った一人の愛湯家が、たまたま休憩所でくつろいでいた恭介さんと誠さんの写真をSNSに投稿したというのだ。
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