四章八節 地に立つというこの証(八)

文字数 2,333文字

『テレビで放送されたLGBT向け銭湯、あれ本当だったわ。これ、休憩所でくっつきあってるゲイカップルw』
 その日、私は下半期の木谷門下演奏会であった。全演奏が無事終わり、例の如く、打ち上げで、香澄ちゃんや三浦君と喋っていた時、瑞希さんから一本の電話が入った。
『あ、小川さん。突然ごめんね。もしかしてだけど、博人からそっちに連絡入っていない? 実は今朝方から急にいなくなっちゃって。宮田さんや太田さん、私たちが連絡入れても、全く返事が無いのよ』
 普段の年上の大人の落ち着きはなんとか保持しながらも、初めて聞く焦燥の声音に、私の鼓動はみるみる加速した。
「小川?」
 態度の急変をいち早く察知した三浦君が、訝しそうに顔を覗かせる。私はひとつ頷くと「ごめん、急用が出来た」と、咄嗟に打ち上げ会場を後にした。

 華金で浮かれた飲み屋街を抜け、浜田湯に着くと、そこだけ異世界のように、即席の臨時休業の看板がひっそりと立てかけられていた。
 時刻は一九時過ぎ。最も賑わうはずの店内は、由紀菜さんを除く三名と宮田さん、太田さんが不安そうに、方々に佇んでいた。
「あけびちゃん」
 私が姿を現すや、ハッとした表情で顔を上げる恭介さんに代わって、瑞希さんが「わざわざ来てくれて、ごめんねー」と嘆息しながら、事情を説明してくれた。
 曰く、一昨日の愛湯家の投稿は、肖像権の侵害或いは性的マイノリティーを侮辱するものだと猛批判を浴び、投稿は瞬く間に削除された。
 それについて恭介さんや誠さんは、怒りよりもむしろ、この一件で一昔前より、アライ(※LGBTを理解し、支援する人々)の増加を感じたものだと、気にも留めていなかったらしい。しかし、彼らよりも博人さんの方が、本件の責任を感じてしまい、「ちょっと出かけています。昼頃には戻ります」の書置きを残し、今朝方から姿を消してしまったという。
「昼過ぎくらいまでは、遅いな程度で開店準備を進めていたのですが。さすがに一五時過ぎても戻ってこないのは、おかしいなと思ったんですよ。連絡入れても、既読すらつかないですし。一番風呂目当てで、戸田さんがいらして、本当助かりました」
 途方に暮れた表情で、一人TV下の壁に寄りかかっているのは、先日不在にした太田さんであった。柔和な雰囲気ながら、引き締まった体格と蓄えた顎髭は、宮田さんとある種対照的であった。
「ひろ、先日の取材が、今回の件を巻き起こしたと負い目感じちゃったんだろうね……俺たちがついていながら、自分が不甲斐ない」
 心底悔しそうに声を絞り出す誠さんに「誠のせいじゃないよぉ」と恭介さんがそっと手を添える。「仕事中の由紀菜含めて、心当たりには一通り連絡入れてみたんだよ。でも、どこもなしのつぶてで。まぁ、私たちも知る博人の交友関係って、たかが知れてるけど」
 アッシュベージュの髪をくしゃりと潰す瑞希さんに、私は猛烈に頭を回転させる。「他に心当たりは――」必死に過去の記憶を呼び起こしていた時、ふと千恵さんの葬儀が蘇る。
 彼岸花の咲き乱れる境内。礼服を着こなす博人さんに詰め寄る男性と、それを取り持つ女性。
 あれ、確か、〝彼女〟の実家は、群馬と言っていたっけ。しかし、それ以上の情報を、残念ながら私は持ち得ていない。
 と、その時、もう一つの可能性も思い出す。いや、そこは限りなくゼロに等しくはないか。
『恭介や皆と同じくらいに大事な空間だからこそ、僕はこの安らぎに満ちたここを、今度こそ失いたくない』
 最後に交わした博人さんとの会話。うん、今の〝彼〟なら訪れていてもおかしくはないか。天涯孤独になった〝彼女〟が、私の知る限りにおいて、唯一安らげるであろう場所。
「あの……ちなみにですが、高崎には皆さん、既に連絡入れていますか?」
「高崎? いや、博人の実家の連絡先は知らないんだよ。あれ、でも、あいつの実家って、確か桐生じゃ――」
 恭介さんの言葉に、私はふぅと息を整える。「私、分かったかもしれません……とはいえ、可能性はかなり低いですが」
 その仮説を述べた時、感嘆よりも困惑の方が大きかった。「確かに、いつかそんな話聞いたことがあるな。でも、もう六年前でしょ。そもそも、その方がご存命なのか……」
「そうそう、今ネットで調べてみたけど、一年半程前から、お店の更新止まっているよ。まぁ、地方だと、発信していないところも多いけれど」
「でもその一方、地方は最近、廃業するお店も多いですよ。私の北関東の知り合いでも、既に今年に入って、数件が閉店しています」
 店内に再び諦めムードが漂いながらも、私は無意識に下足所へと駆けていた。「とりあえず、私行ってきます」少し傷み出したスニーカーを履きながら、声を放つと、背後で全員のどよめきを感じた。
「え、今から高崎行くん!? 絶対、いないって! 間違いなく取り越し苦労になるから、やめたほうがいいよ!」
「うん、変なテンションにさせて、本当悪かった。きっと、誰かから連絡来るから。それまで、家で待っていて」
「いえ、さすがに今日は遅いですし、明日の始発で向かいます! 大丈夫です、この土日特に予定はありませんし、もし見つかりましたら、ご連絡ください!」
 自分でも、訳の分からん理屈だなぁと呆れながらも、そのまま浜田湯を飛び出していた。相変わらず付近は静まり返りながらも、そこ以外は何の変哲もない、慣れ親しんだ世界だった。
 帰宅し、日帰り用の荷物を整えると、仮眠後、始発の新幹線に間に合うように、自宅を後にした。
 寝不足ではあったが、道中睡魔には襲われなかった。がらがらの座席に、手持ち無沙汰に最近サブスクで購入した音楽を垂れ流すと、ブラームスのピアノ協奏曲が流れ、私はまた二度ほど苦笑した。
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