一章五節 浜田湯(後)

文字数 2,531文字

「は~」
 少しぬるめの、全身を温かく優しく包み込んでくれる湯加減に、思わず吐息が漏れる。肩の力が抜け、ぼんやりとした頭で浴室を眺めると、それまで喧騒に過ぎなかった人々の営みが、はっきりと明瞭に聞こえ始めた。
「山口さんとこの新しい奥さん、一五歳も年下なんですって。そう、噂によると、水商売やっていたみたいで……夜の生活も大変よね」
「坂田先生、本当にありえないし。佳奈ちゃん泣いてたよ、なんで磯田さんがレギュラーなのかなぁ。あの子全く練習に顔出してなかったじゃん」
「檜山さん、桂歌丸さんが死んだってご存じないの? 私好きだったのよ、笑点。遥か昔、小圓遊さんとの掛け合いが実に見事でねぇ」
 ここまで緩み切った態度を醸し出したのは、上京して初のことだ。いやそれよりも、もっと前。家族と美味しいものを食べに行った時も、友達と学校で盛り上がった時も、仲の良かった男子と一瞬付き合った時も。頭の片隅には常にピアノが、足枷のように重くのしかかっていた。

「ふふっ、随分、呆け切った表情をしているのね、あなた。日頃から相当、重圧でも抱え込んでいるんじゃない」
 すっかりリラックスした状態で、一人露天風呂から満月を眺めていると、先程のサウナの女性がニヤニヤとこちらへ向かってきた。
「あっ、先程はどうも」
 その引き締まった身体は全身に血色が行き渡っており、しっとりとした長髪には、あまねく水滴が月の光で燦然と輝いていた。
「こんなに銭湯が気持ち良いなんて、私知りませんでした。お姉さんも、ここにはよく来られるのですか?」
 ほてった顔で、普段なら発することのない問いを彼女に投げかけてしまう。一瞬、彼女は無表情で私に対峙したものの、すぐに、そうね、かれこれ一年になるかしらと、岩場の縁にそっと腰を据え、
「私ずっと、地方でデザイナーをやっていてね。二年前に先輩の誘いで、東京のデザイン会社に転職したの。
 お給料は良いし、残業もこの業界にしては遥かに少ないんだけど、その分、地方より一層ハイレベルな仕事を求められてね。そのプレッシャー、葛藤と慣れない東京生活に、半年足らずで体調を崩しちゃって」
「あぁ私こんなもんかと、日中何度も自宅のベッドで一人泣いたわ」
 そう言うと彼女は、自虐的な笑みをそっと浮かべる。それまでのクールな大人な女性とは打って変わり、月夜に照らされたもろく危うげな顔は、それが彼女の素の姿のように感ぜられた。
「そんな時、たまたま友人に銭湯通いを薦められてね。正直初めは、銭湯なんか年寄りが行く所としか思っていなかったよ。でも、彼女に促されるまま半ば強引に、蒲田の銭湯に二人出かけて行ってね。
 そこの浴場の安らぎに満ちた空間、温かく大きなお風呂が私を包んでくれた瞬間、一気に心身が解きほぐされていって。そこからはもう銭湯にぞっこんよ。今じゃ休日も暇さえあれば、都内の銭湯巡りをしているくらい」
 そう述べると、彼女はふふっ、少し喋りすぎたかしらと、外気で冷えた身体を湯船に浸した。
 私は東京で暮らす大人の女性の苦悩譚に、のぼせ気分も気にせず、すっかり聞きほれていた。
「あなたも、何で思い悩んでいるかは知らないけれど、そんな時はこうして銭湯にいらっしゃい。案外、少し気を緩めることで、解決できちゃう問題ってたくさんあるのよ、実際」
 浴場から数名の叔母ちゃんが、伴侶の愚痴を零しながらやって来る。私はつと湯船から立ち上がると、女性に近づき、
「あの、今日は貴重なお話、ありがとうございました。もしよろしければ、お名前を伺っても……」
 私の恐々した眼差しに、彼女はキョトンと彫りの深い目を向けた。しかしすぐさま、ニヒルな笑みを称え、
「相沢麻里江。住まいは港区だけど、この浜田湯にはよく来るから、また良ければお会いしましょう。あなたの方こそ、お名前は?」
「小川あけびって言います。私も音楽大学でピアノを学ぶため、この春から上京しました」
 彼女の経験話に触発されたのか、私もつい言わなくてもいい情報まで口を衝いてしまう。
「ふぅん、ピアノね……」
 彼女が右手を上げると、私はぺこりと頭を下げ、露天風呂を後にする。浴室の時計は日付を超えようとしているにも拘らず、白湯にはなおも多くの常連客で賑わいを見せていた。

 脱衣所から待合室へ戻ると、番台にて一人、先程の若者がのんびり漫画雑誌を眺めていた。
「あの、お風呂ありがとうございました。それで、おばあ様はどちらに……」
「あぁ、おばあちゃんなら、疲れて、さっさと寝床に入っちゃったよ。怪我については、明日朝一番に病院に連れて行くから、そこは心配しなくて大丈夫です」 
 そう言うと彼はパタンと漫画雑誌を置き、黒く深い瞳で私を見つめた。茶髪の潤いを帯びたショートカットは、その中性的な顔立ちと合わさり、一瞬女性のようにさえ錯覚してしまう。
「今日は改めて、ありがとうございました。怪我どうこうよりも、他人に親切にされたこと自体、昔気質のばあちゃんは相当、喜んでいました」
「余程、嬉しかったんでしょう。ばあちゃんが無料で風呂を貸すなんて、僕が番頭を継いで、初めてのことだ」
 彼のやや羨望の入った眼差しに、私は何と言っていいやら、ただただ曖昧な笑みを浮かべるだけであった。
「それに、実はね……」
「おーい、博ちゃん! こっちのフルーツ牛乳、切らしてるよー。俺の風呂上がりの楽しみ、どうしてくれるんだ!」
「あっ、はーい! 女湯の方に、何本か余りがありますから、今それ取って向かいまーす!」
 彼がつと番台から立ちかけるタイミングで、私はあの改めてよろしくお伝えくださいと告げ、いそいそと出口へと向かった。
「あ、ちょっと!」
 暖簾を抜けると、そこは変わらぬ、都内の蒸し暑い夜が広がっていた。
「銭湯、浜田湯……か」
 私は半ば夢見心地の気分で、深夜の家路を朧気に歩いた。
 帰宅すると、時刻は午前一時を指し示していた。部屋に灯りを点すと同時に、お腹が未だかつてない大きさでぐぅと鳴る。
「しまった、もう半日以上、何も食べてないんだった」
 私はすっかり冷え切ったコンビニ弁当を、急いで電子レンジへと突っ込む。取り外したビニール袋からは、うっすらと石鹸の優しい残り香が辺りに漂った。
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