四章一節 地に立つというこの証(一)

文字数 2,932文字

    1

 ホームに降りた瞬間、眩い日差しに思わず顔をしかめる。「まだ八時なんだけど……」人のまばらな駅舎内、シャツブラウスを選んだことを半ば後悔しながら、ハンドタオル片手に改札を抜ける。
 次年度から、その大半を利用することになるであろう最寄り駅。お洒落な高架下も、駅周りの街並みも、寝不足と久々の早起きでダブルパンチな私にはあまり、感慨も無かった。
 あくびを嚙み殺しながら、駅中のコーヒーショップで、アイスコーヒーを手にする。スマホを眺め、やをら溜息を吐くと、既に陽炎揺らめく、キャンパスまでの坂を急いた。

「小川さん、随分と気ぃ張ってるねぇ。集中レッスンまだ初日なんだからさー。はい、リラックス、リラックスー」
 先程までの鬼のレッスンとは打って変わり、私の恩師は苦笑いでこう呟くと、小休止とばかりに窓辺へ歩を向け、洗練された目黒区の街並みを眺めた。
「いやぁ、一応今日から〝外部講師特別レッスン〟ですから。それに、先週まで繭との外コンに時間を取られ、練習もあまり出来なかったもので」と素直に臍を嚙む。
「ふっ、初日はお馴染みの顔で悪かったね……どうだったのよ、本田さんとの初めてのコンクールは? 何か収穫あった?」
 普段とは異なるキャンパス・レッスン室にもかかわらず、彼はいつもと同じ着飾ったジャケットに、己の世界を持った笑みを讃えていた。
「はい。お互い今後の糧となる、貴重な外コンでした」
 先週、横浜で行われたコンクールでは、繭は後一歩のところで、受賞を逃した。
「くそー、終盤の楽章で一音外していなければ、入賞出来たのにー! 最後の最後で集中力が途切れた。やはり経験不足は否めなかったか……」
 ガックシという擬音が相応しい程、肩を落とす彼女に「ごめん。終盤の入りのところは、私の音が遅すぎた。もう少し、繭の音に耳を傾けるべきだった」と共に神妙に項垂れる。
「いや、あそこは楽譜通りに弾くのが正だから。というか、今回のミスはあけびのせいじゃない……あー、もー!」
 そこで彼女は一つ息を吐くと、おもむろに後ろを振り返った。いつしかライトアップされたホールに、真っ向から挑むように、
「決めた。私、来年の春のコンクールで成果を上げる。春ぐらいなら、まだ融通利くよね? そこで結果を出して、あけびにバトンタッチする」
 視線を向けた彼女の瞳は、一抹の悔恨と次なる闘志に燃えていた。そんな彼女と同調するかのように、私はもちろんと声を振り絞ると、賑わうコンサートホールを後にした。
「ちなみに先生。話は変わりますが……来年のロビーコンサートって、やっぱり推薦は一人の予定ですか?」
「ん? ロビコン? あぁ、そうだね。一昨年笹川、去年前田と選出しちゃったから、他の講師陣との兼ね合いもあるしね。まぁ、その分、推薦するからには、全力で選考を超えてみせるよ」
「もし推薦が棄却された場合、その時は、僕はこの音大を退くよ」ご自慢の丸眼鏡を手入れしながら、さらりと言ってのける講師に、私は「冗談は止して下さい」顔を引きつらせる。
「いやいや、これは僕なりの覚悟だよ。あけびはもちろんだけど、最近は香澄や侑磨もいたく熱を燃やし出したから。先月三人でロビコン観に行ったんだってねぇ。そっから二人も随分変わったよ」
 圧をかけているのか、活を入れているのか。一つ声のトーンを落とした彼に「そうですか、二人も……」と、先日の真夏の街中での誓いが頭を掠める。
 しかしそんなことは気にも留めず、彼は腕時計を一瞥すると「それじゃ、一時間のお昼休憩の後、再びレッスンを始めましょう」とドアノブに手をかける。
「午後からは小川さんの苦手な、ピアノデュオを猛特訓しようね。僕も張り切って、演奏するから、がんばろう」
 丸眼鏡奥底の嗜虐的なスマイルに、私は背筋を伸ばし「はい」と従うだけであった。
 
「だって〝外部講師特別レッスン〟と銘打っておきながら、初日が一年半顔を見続けてきた講師なんですよ。はぁ、明日は誰なんだろう? 帰り際、スペシャルゲストも招いているって、先生、ほくそ笑んでいましたが」
 業務の確認で連絡してきた流れで、今日一日の出来事と愚痴を零すと、相手は「へぇ、でも苦手を克服出来て良かったじゃん。そういうのって、自分のことを知り尽くした先生じゃないと出来ないだろうし」と労りの籠った声音で、真摯に応える。
「まぁ、そうですね。通事のレッスンでは行き届かない部分も学べましたし。それに――」と言いかけたところで、背後でやけに騒々しい音が耳に入る。「博人―、塩素測定器、全く反応しないんだけどー」微かに響く恭介さんの焦りの声に、「今行くから、待って」と博人さんが気怠げに返す。
「もしかして、恭介さん、手伝いに来ているんですか!? すいません、私、この時間なら大丈夫と思っていたんですが、くだらない雑談を続けてしまって」
「うぅん、今日は平日なのに、珍しく、ひっきりなしにお客さんがいらっしゃってねー。でも小川さんの言う通り、この時間はもう人もまばらだから、全然平気だよ」
「それじゃ、残り四日間、頑張って!」相手が電話を切りかけたところで、咄嗟に「あ、最後に一つ」と声が漏れてしまう。申し訳ないなと思いながらも、どうしても心配が勝ってしまい、
「ちなみに千恵さんですけど、その後調子はいかがですか。先日、下田の叔母さんがお見舞いに行った時は、随分元気そうにされていたみたいですが……」
「あぁ……うん……ご飯はしっかり食べてるし……身体もちゃんと動かしているよ。だから大丈夫……心配しないで」
 安心させるような優しい口調ながら、博人さんの言葉の端々はなんとも歯切れが悪かった。私は「それは良かったです」と問いかけたことを半ば後悔しながら、「すいません、お忙しいところを」と再度謝辞を述べ、そのまま通話を終えた。

    2

〝外部講師特別レッスン〟二日目は、ヴァイオリン奏者の竹内講師と室内楽のいろはを教わり、その翌日は声楽科院生の栗田先輩と、声に合わせた伴奏に苦闘した。
 その日は朝から秋の爽やかな風が、街にたなびいていた。涼しくなったおかげか、四日目で幾分慣れてきたのか、普段は一息入れる坂をすいすいっと上り、所定のレッスン室に入った瞬間、
「こんにちは、小川さん。またお会い出来ましたねぇ。どうですか、ご自慢の翼はうまく羽ばたかせていますか?」
 部屋一面に漂う、淡い蜜柑のお香に、思わず身体が硬直してしまう。
「来日中に田中君から、都音の一日レッスンを依頼されてね、もしやとは思ったんだけど。運命の神様を祝福しなさい、僕が愛弟子以外で、日本人学生に二度も指導するのは、初めてのことだ」
 淡々と話す白髪の老人は「今日は前よりも教える学生の数が多くてねぇ。早速好きな曲を披露してよ」と、以前と変わらず大きな右手で、隣のピアノ椅子を促す。
「は……はい、よろしくお願いします!」
 目の前の現実に、瞬く間に身体が緊張の色を帯びる。うちの田中先生が、彼に講師依頼をかけるほど、深い関係だったなんて。いや、そんなことは、どうだってよい。去年の夏、埼玉ピアノ音楽祭で稽古をつけてもらった演奏家の再会に、私は興奮と動転の思いで、鍵盤を前にする。
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