二章五節 レインボーフラッグ(二)

文字数 2,148文字

「あぁー、ババ抜きしようと思ったら、一気に人がいなくなっちゃったよー。それじゃ、話の続き、続き! ねぇ、命の恩人って、千恵さんそんなに、絶体絶命だったの!?」
「あ、いや……」
「違う。夏の夜だったか、角の三丁目の手前で、ばあちゃんが、自転車にぶつかって。動けないでいたのを、たまたま通りかけた彼女が、家まで介抱して連れてきてくれた次第よ」
 口を開きかけたところで、お櫃を持参した青年があっさりまとめる。彼女は「すごーい」と拍手する素振りを見せると、「角の三丁目って、ここから、そこそこ距離があるよね」と栗ご飯をよそう瑞希と確認しあう。
「いえいえ、別に咄嗟の行動でしたので。それより、私も一ついいですか?」 
 上目遣いに、三人の顔を順繰りに眺めると、彼は「言いたいことはわかるよ。驚かしてしまい、本当にごめんなさい」とゆっくり首を垂れ、
「実は今日の『浜田湯菊祭り』は、近所の商店街の人との親睦と同時に、僕の友達のLGBTの皆との交流の場でもあるんだ。ここにいる人のほとんどは理解者ばかりで、初対面の人には、事前に必ず伝える手筈なんだけど……でも、今回貴女にはそのことを、あえて告げなかった。それは一つの試行と共に、貴女ならきっと、僕たちの描く不測の事態にはならないだろうって」
「……LGBT」
「えっ、もしかして博人、この娘に何も告げないで招待したの!? ということは彼女、その手の知識は全く無く……」
 この人たちは何を言っているのだろう。瑞希さんの顔が小さく強張ると共に、聞きなれない言葉に冷や汗が流れる。
 刹那、由紀菜さんが「えぇとねぇ、あけびちゃん……さっき、私が瑞希を〝彼女〟と言ったでしょ」と言葉を選びながら、それでも気負うことなく、
「結論から言うと私たちは、同性のカップルなの。まぁ、厳密に言えば、私はレズビアンで、みずきはバイセクシュアルなんだけどね。博人とは、レインボーイベントを通して、交流を深めて。あそこで盛り上がっている恭介、本日は別件で不在の誠と五人で、性的マイノリティーの理解と共感に励んでいるの」
「バイセクシュアル……レインボーイベント……」
「なんのことはない。彼女や彼らは、人間の持つ根源的な『好き・指向』に抗うことなく、生活しているって訳さ。そして一歩進んで、それを他者に隠すでもなく、むしろあるべき世界だと、熱心に理解してもらおうと努めている」
 聞き慣れない言葉の羅列に、頭が追い付けないでいると、聞き耳でも立てていたのか、女湯の引き戸がガラリと開き、中から湯上り姿の相沢麻里江が、淡々と告げる。
「あけびちゃん、ご無沙汰。……ねー、ひろちゃん。秋野菜の天ぷらって、もう無くなっちゃった? 冷やしてた菊酒のつまみに、つつこうと思ってたんだけどー」
 カットソーに黒のボトムスというラフな井出立ちの彼女は、潤いを帯びた髪を器用にお団子にまとめると、私の横にどさりと腰掛ける。
「残念ながら、天ぷらはもう売り切れです。それより、麻里江さん、この娘とも、もう知り合いなのですね……先程の田中さん親子もそうですし、どんだけうちの顧客と顔見知りなんですか」
「いやー、彼女には以前に、銭湯のいろはを教えただけよー……栗ご飯、これはさすがに酒のつまみにはならないか……」
 青年の飽きの入った顔にも、彼女はどこ吹く風とばかりに、にまりとこちらへ振り向くと、そのまま目前のお椀に箸を入れ始めた。
「えっと……由紀菜さん。ごめんなさい、話の腰を折ってしまって……レズビアンって、同性愛のことですよね。バイセクシュアルというのは、男女どちらも愛するってことですか? 後、レインボー……イベントって」
「そうそう。バイセクシュアルは、両性愛の人の総称なの。それでね、レインボーイベントってのは、毎年春に、渋谷で開催されるイベントなんだけど――」
「ごめん……ゆきな、私ちょっと外の空気吸って来る」
 嫌な顔一つせず、由紀菜さんが私に優しく語句を解説し始めたその瞬間だった。瑞希はもう耐えられないとばかりに、そう告げると、そのまま電子タバコ片手に出口へと去って行ってしまった。
「わっ、ちょ、みずき!……っと、ごめんねー、あけびちゃん。ちょっとだけ、待っててもらえるかな」
 苦笑いで、由紀菜さんは手のひらを合わせると、そのまま小走りで彼女の後を追いかけて行ってしまう。
「……えっと」
 後には一人、ぽつねんと取り残される私。居心地悪げに、とりあえず目の前のお膳の栗を口に運ぶと、
「あの、小川さ……」
「あけびちゃん」
 俯きげな私の肩越しに、青年の心配そうな声音が聞こえた。しかしそれに覆い被さるように、いつの間にか菊酒を嗜んでいた麻里江さんが、ぶっきらぼうに奥の引き戸を指差し、
「ご飯食べる前に、せっかくだし、お風呂にでも入ってきたら……ってか、貴方の場合、今回の主目的はそれでしょ」
「え……でも、今由紀菜さんが――」
「いいから、いいから! さっきお湯が足されたばかりだし、今が一番気持ちのいいお風呂よ! 後丁度、誰も入っていないし、貸し切り状態」
 彼女の有無を言わさぬ声音に、促されるように小さく頷いてしまう。私は横に置きっぱなしのリュックを手にすると、ちらりと出口の方を伺いながら、そっと木製の引き戸を開いた。
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