四章十二節 地に立つというこの証(十二)

文字数 2,225文字


    8

 その日は朝から凍えんばかりの寒さであった。五四年ぶりのホワイトクリスマスなるかという、外界の喧騒を閉ざし、今日も私は、この一月、何度も弾き続けた二曲の練習に勤しむ。
『あけびちゃん、無事に今日来られそう? 一足先に、私たちは始めちゃってます笑』
 昼過ぎに由紀菜さんから届いたLINEを皮切りに、私は譜面台に置いた楽譜をようやく取り換える。『はい! 予定通り、夕方頃、伺います!』そう一言返すと、即座に件の漫画キャラの万歳スタンプが送られる。私はほっと肩の力を抜き、一人笑みを零しながら、数年ぶりにお披露目する曲の最終確認に向き合った。

「小川さん! よく来たねー、さぁ、入って、入って!」
 中央線沿いの駅から歩いて程なく、年季の入ったビルの一角を開けると、見事なクリスマスツリーの横、珍しくほろ酔い気分の誠さんが幸せそうに招き入れてくれた。
「おー、お疲れー。ナイスタイミング! 丁度美紅ちゃんたちが、帰ろうとしてたとこなんだよねー」
 そう叫ぶ、サンタコス姿の由紀菜さんが配膳する傍らでは、同じ衣装の博人さんと、ともちゃん、瑞希さん(!)が、美紅ちゃん母子と、翔さんカップル相手に楽し気にUNOに興じていた。
「よし、決まり! 暮れの大一番は、最強牝馬ピーナッツノーズでいくぞ!」
「固い勝負になるんかねぇ。俺はプレミアムジャパンの複勝一点だけだな」
 そしてその隣の卓では、恭介さんと宮田さん、常連の新垣さん、林さん等が侃々諤々の議論を交わしていた。シャンパングラスの脇には真っ赤な紙面。つまりはそういうことか。
「おねーちゃん、ひさしぶり! みくねー、ピアノききたくてねー、ずっとまってたんだよー」
 と、こちらを見るや、とことこーと駆けてくる美紅ちゃんに「おー、美紅ちゃん、久しぶりだね!」と下手な笑みのまま、抱き寄せる。バイトを辞めて、暫く会えていなかったが、いまだに覚えていてくれたことが純粋に嬉しかった。
「小川さん、お久しぶりねぇ。ごめんなさい、この娘。今日は時間的に厳しいって言ったのに、小川さんがもうすぐ来ると知ってから、私の言うことも聞かず、もうずっと帰ろうとしなくって」
「だってさ、小川さん、人気者じゃん! それならさ、時間より少し早いけど、早速もう演奏会、始めちゃう?」
 博人さんの言葉を筆頭に、期待感の入り混じった視線と、彼女の純粋無垢な笑顔に、私は 窓際の時計を眺める。予定では演奏時間は一八時開始としていた。時間まで、まだ三〇分以上ある。しかし、
「……わかりました! それじゃ少し早いですが、準備出来次第、クリスマスライブ、スタートしましょうか!」
 私の掛け声に、その場にいた多くの参加者が、喜びの歓声を上げる。
「そうこなくっちゃ! さすが、小川さん! はい、それじゃ、これ。特製の衣装、用意しといたよ」
 満面の笑みを浮かべながら、瑞希さんが手渡してきたのは、大きなサンタ帽と若干丈の短いサンタコス衣装であった。一瞬拍子抜けした顔の私に「私も着てるんだから。自分だけ例外なんて、許さないよ」とサディスティックな微笑に、私はただただ頷くしか無かった。

「いやぁ、あけびちゃん、やっぱ本当に音大のピアノ科なんだねぇ。そんじゃそこらの演奏とは桁違いの、圧巻の音色で鳥肌立ったわ」
 ピアポント,・ジェームス『ジングルベル』に始まり、フレッド・クーツ『サンタが街にやってくる』、オートリー・ジーン/ホールドマン・オークリー『サンタクロースがやってくる』、そしてバーリン・アーヴィング『ホワイト・クリスマス』。
 いわゆる王道の、アンコールも含めた計二〇分弱の演奏会は無事に終わり、ご褒美のロティサリーチキンを差し出す由紀菜さんに、私は苦笑いで手前のオードブルをつまむ。
「いや、でもこの曲くらいなら、少し練習すれば、皆さんも十分弾けるようになりますよ」
「いやいや、そんな簡単そうに、言わないでよ! それにしても、美紅ちゃんって子、本当にピアノに興味があるんだねぇ。演奏中、一ミリたりとも、あそこから動かなかったもんね」
 チキンを切り分けながら、今は恭介さんやともちゃんが遊ぶ電子ピアノを眺める由紀菜さんに、私はぐっとワイングラスを呷る。
 時間の都合上、美紅ちゃん親子は演奏が終わるや、すぐに帰って行ったが、彼女はお母さんの静止も聞かず、ライブ中は終始、私の真横で、電子ピアノに釘付けであった。
「これは、音楽の習い事はピアノで決定かな。お母さんはフルートをやらせたかったみたいだけど、彼女はそんなに乗り気じゃなかったらしいし……どうするよ、小川さんの影響で、彼女もピアノの道に進むなんて言い出したら」
 からかい口調で隣に腰を据える博人さんに、「私の影響で……ね」と思わず小さく反覆する。
「あけびちゃーん、ともちゃんがさー、後で『クリスマス・イブ』弾いてだって」
「おーい、あんたたち、チキンが焼きあがったから、こっち来て適当に配膳して!」
「小川先生、俺にも簡単なクリスマスソング教えて下さい!」
 結局入れ替わり立ち代わり、終電近くまで続いたクリスマスパーティーは、私の人生史上、最も楽しいクリスマスイブであった。
 酔い心地の自宅までの帰路、暗がりの道にはうっすらと半月が浮かんでいた。弱弱しくも、はっきりと周囲を照らす明るみは、今の私にとって、漠然とした将来の暗闇に対する、一筋の小さな光の射し込み、そんな気がして私はマンションまでの道を急いた。
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