五章二節 即興曲 FP63 第1番~第10番(二)
文字数 1,844文字
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父と母に久方ぶりの親孝行をし、鵜飼さんとの顔合わせ、地元の友人との僅かな再会を祝せば、三日間の帰省はあっという間に終わった。
東京に戻ると、すぐに大学の実技試験があり、さらに繭のコンクール一次予選と怒涛の如く二週間が過ぎ去った。
そしてその次の日曜、
「えっと、繭さん。確かに少し派手目な衣装でも構わないとは言いましたが、さすがに胸元の開いた赤ドレスというのは……後、裾短くない? めっちゃスースーする――」
「おー、やっぱ様になっているねー。いいじゃん、私の場合、ワインレッドもミニドレスも履けない体型なんだから。すっきり美脚が映える衣装が羨ましいわぁ。というか、今日は公的なコンクールでもない、全く私的なクラシックライブなんだから。多少攻めた服装でも着ないと!」
「あの、普通に木谷先生も観に来てるから。それに――」
と言いかけて、心底楽しそうに化粧箱を片付ける繭の姿を見て押し黙る。先週の一次予選の手応えは、傍から見て正直微妙であった。それでも彼女は、気丈に今週から二次予選の練習をスタートさせ、本日はまるで自分が出演するかのように、実に嬉々として私のスタイリングを手伝ってくれた。
「木谷先生じゃなくて、愛しの相手でしょ。開演一時間前にもかかわらず、いの一番で、会場のソファに待機してるんだから」
私たちお手製の、簡素な二枚のプログラムを眺める彼女の嘆息に、私は「まぁ……」と思わずお茶を濁す。
博人さんの一件は、〝彼〟が男性でもあり女性でもあるXジェンダー(両性)であり、そんな〝彼女〟に恋心を抱いているということは、昨年の晩秋、「クレスト」にて彼女に打ち明けている。
好きにすれば。あけびが好きっていうなら、私はそれを止めもしないし、応援する義理もない。まぁ、一友人として、あんたの幸せは願っているけど。
バイセクシャルやトランスジェンダーについて話した時、彼女は同性愛者への嫌悪とはまた異なる、無知と困惑の表情を浮かべていた。
一連の過程を話し終え、最悪、また絶縁されるかと覚悟していたものの、彼女はそう呟くと、特に興味もなさそうに、手元のコーヒーカップを弄んでいた。
結局、その話題はそれ以降触れられることなく、彼女は変わらぬ関係を続けてくれた。私はそれが何よりの救いであり、今日みたいにこうやってサポートに勤しんでくれること自体、正直感謝の気持ちで一杯だった。
「小川さーん、開演五分前ですが、準備の方は大丈夫ですか?」
と、少しの沈黙が続いたところで、楽屋の戸がすっと開き、都立音大の卒業生であり、現在このライブカフェで働く橋本さんが顔を覗かせる。
「はい、大丈夫です。本日は、よろしくお願いします!」
私の声音に、彼は「はーい、よろしくお願いしますね」と陽気な笑みを浮かべ、再びダイニングへと去って行った。
「……まぁ、なんでもいいや。よし、それじゃ、今回は楽しんでいこう。『楽しい音楽の時間』といきますか!」
頭を一つ掻き、ドレスの背をポンと叩く彼女に、私は「なつかし」と表情筋を少し緩める。
薄い壁を一枚隔てた会場には、早くも人々の喧騒がはっきりと聞き取れた。「繭、よろしくね」私がそっと彼女に視線を向けると、「大船に乗ったつもりで」といつもの、緊張を和らげる、朗らかな笑みを小さく湛えていた。
楽屋を出た瞬間、通路脇のソファに三浦君がいて、思わず面食らう。彼の少し驚いた表情に、私は咄嗟に笑みを振りまくと、そっと壇上へと繰り出す。
「えー、本日はお忙しい中、『小川あけびピアノリサイタル』にご来場くださり、誠にありがとうございます。司会を務めさせていただきます、本田繭です。どうぞ、よろしくお願いします。
さてこれよりしばし準備等、お時間をいただきます。ですので、どうぞ今暫くご歓談下さい」
裏方を意識した通事より落ち着いたニット衣装で、こんな場所でも物怖じしない繭の完璧な司会に、私は感謝しながらピアノ椅子へと腰掛ける。
それにしても、下見や今日来た段階でも気づいていたが、こんなにピアノと客席が近いとは。丁度最前面に座る美紅ちゃん親子と白髪の叔父さんの熱い視線を感じ、私は慌ててピアノ椅子の位置を調整する。
と、その時、私の祈りが届いたかのように、会場を照らしていた照明がすっと落とされる。
私はホッと一息吐き、準備が完了した旨、繭に目配せすると、小さく伸びをし、手指を交差させる。
いけない、意識を曲へと集中させよう。よし『楽しいピアノの時間』のスタートだ。
父と母に久方ぶりの親孝行をし、鵜飼さんとの顔合わせ、地元の友人との僅かな再会を祝せば、三日間の帰省はあっという間に終わった。
東京に戻ると、すぐに大学の実技試験があり、さらに繭のコンクール一次予選と怒涛の如く二週間が過ぎ去った。
そしてその次の日曜、
「えっと、繭さん。確かに少し派手目な衣装でも構わないとは言いましたが、さすがに胸元の開いた赤ドレスというのは……後、裾短くない? めっちゃスースーする――」
「おー、やっぱ様になっているねー。いいじゃん、私の場合、ワインレッドもミニドレスも履けない体型なんだから。すっきり美脚が映える衣装が羨ましいわぁ。というか、今日は公的なコンクールでもない、全く私的なクラシックライブなんだから。多少攻めた服装でも着ないと!」
「あの、普通に木谷先生も観に来てるから。それに――」
と言いかけて、心底楽しそうに化粧箱を片付ける繭の姿を見て押し黙る。先週の一次予選の手応えは、傍から見て正直微妙であった。それでも彼女は、気丈に今週から二次予選の練習をスタートさせ、本日はまるで自分が出演するかのように、実に嬉々として私のスタイリングを手伝ってくれた。
「木谷先生じゃなくて、愛しの相手でしょ。開演一時間前にもかかわらず、いの一番で、会場のソファに待機してるんだから」
私たちお手製の、簡素な二枚のプログラムを眺める彼女の嘆息に、私は「まぁ……」と思わずお茶を濁す。
博人さんの一件は、〝彼〟が男性でもあり女性でもあるXジェンダー(両性)であり、そんな〝彼女〟に恋心を抱いているということは、昨年の晩秋、「クレスト」にて彼女に打ち明けている。
好きにすれば。あけびが好きっていうなら、私はそれを止めもしないし、応援する義理もない。まぁ、一友人として、あんたの幸せは願っているけど。
バイセクシャルやトランスジェンダーについて話した時、彼女は同性愛者への嫌悪とはまた異なる、無知と困惑の表情を浮かべていた。
一連の過程を話し終え、最悪、また絶縁されるかと覚悟していたものの、彼女はそう呟くと、特に興味もなさそうに、手元のコーヒーカップを弄んでいた。
結局、その話題はそれ以降触れられることなく、彼女は変わらぬ関係を続けてくれた。私はそれが何よりの救いであり、今日みたいにこうやってサポートに勤しんでくれること自体、正直感謝の気持ちで一杯だった。
「小川さーん、開演五分前ですが、準備の方は大丈夫ですか?」
と、少しの沈黙が続いたところで、楽屋の戸がすっと開き、都立音大の卒業生であり、現在このライブカフェで働く橋本さんが顔を覗かせる。
「はい、大丈夫です。本日は、よろしくお願いします!」
私の声音に、彼は「はーい、よろしくお願いしますね」と陽気な笑みを浮かべ、再びダイニングへと去って行った。
「……まぁ、なんでもいいや。よし、それじゃ、今回は楽しんでいこう。『楽しい音楽の時間』といきますか!」
頭を一つ掻き、ドレスの背をポンと叩く彼女に、私は「なつかし」と表情筋を少し緩める。
薄い壁を一枚隔てた会場には、早くも人々の喧騒がはっきりと聞き取れた。「繭、よろしくね」私がそっと彼女に視線を向けると、「大船に乗ったつもりで」といつもの、緊張を和らげる、朗らかな笑みを小さく湛えていた。
楽屋を出た瞬間、通路脇のソファに三浦君がいて、思わず面食らう。彼の少し驚いた表情に、私は咄嗟に笑みを振りまくと、そっと壇上へと繰り出す。
「えー、本日はお忙しい中、『小川あけびピアノリサイタル』にご来場くださり、誠にありがとうございます。司会を務めさせていただきます、本田繭です。どうぞ、よろしくお願いします。
さてこれよりしばし準備等、お時間をいただきます。ですので、どうぞ今暫くご歓談下さい」
裏方を意識した通事より落ち着いたニット衣装で、こんな場所でも物怖じしない繭の完璧な司会に、私は感謝しながらピアノ椅子へと腰掛ける。
それにしても、下見や今日来た段階でも気づいていたが、こんなにピアノと客席が近いとは。丁度最前面に座る美紅ちゃん親子と白髪の叔父さんの熱い視線を感じ、私は慌ててピアノ椅子の位置を調整する。
と、その時、私の祈りが届いたかのように、会場を照らしていた照明がすっと落とされる。
私はホッと一息吐き、準備が完了した旨、繭に目配せすると、小さく伸びをし、手指を交差させる。
いけない、意識を曲へと集中させよう。よし『楽しいピアノの時間』のスタートだ。