三章十七節 彼女だけの主旋律(七)

文字数 2,690文字

 三組の参加者を見送った頃には、空はすっかり紫苑の色に支配されつつあった。
「それじゃ、私はこれで。ごめんねー、急に仕事の連絡が入っちゃって。今日納期の修正じゃ無ければ、全然断ってたんだけどー」
 露骨に悔しそうな顔を浮かべながら、ミネラルウォーターを口にする彼女に、私たちは、「いえいえ……デザイナーって、本当大変なんですね」と別の意味で、それぞれ尊敬の眼差しを送った。
「ありがとう……繭ちゃんも、今日は来てくれてありがとね。それから、あけびちゃん」
 チラリと視線を向けるや、彼女はこっそり物哀しそうな顔を浮かべ、やがて慌ただしく、公民館を去って行った。
「うん……え、今から! 確かに、多めに用意したから、多少はまだ残っているけど……うん……うーん、分かった。とりあえず彼女には一度聞いてみる」
 麻里江さんがいなくなると同時に、先程から博人さんに、今日一日の経過を報告していた誠さんが、声を荒げる。彼は首を傾げながら電話を切ると、心底申し訳なさげな顔で、
「あけびちゃん、ごめん。ひろから、急なお願いで。残った青梅の残り、浜田湯に届けてもらうこと出来る? なんか用意した分より、もう少し薬湯用の梅が欲しいんだって」
「あ、あー、青梅の残りを……」
「もちろん、無理そうなら、全然断って大丈夫。俺も由紀菜もこの後、ちょっと予定があるし。最悪、千恵さんに留守番をさせて、ひろがここまで取りに来るって……」
 彼が私と共に、繭を眺めた瞬間、彼女は、「あー、あけび。私のことはいいから、バイト先に、青梅持ってってあげなよ」と全く自然な口調で呟いた。
「でも、繭。さっき、ちょっと話したいことがあるって……」
「別に大した話じゃないし、また後日でも、問題無いよ。それじゃ、今日は楽しかった。また学校で」
 屈託のない、いつもの笑みを浮かべながら、下足入れへと手をかける。既に話し合われる内容については、私たちはもう理解していた。
 と、それまで瑞希さんの迎えを待っていた由紀菜さんは、スマホを一つ叩くと、おもむろに立ち上がり、
「繭ちゃん、帰る? だったらさ、途中まで一緒に帰ろうよ。言うて、池袋までだけど、もし良ければ!」
 よいしょと大きなバックパックを背負い直し、彼女の傍に肩を並べる。
「あ、えっとー……今井さんがよろしければ、是非!」
 一瞬の間を開けて、彼女は柔らかく微笑み返す。「よし、それじゃ、あけびちゃん、またー」それぞれに梅ジャムの入った袋を掲げ、二人は駅の方角へと帰って行った。
「それじゃ、残りの片付けは俺がやっておくから。準備出来次第、ひろのとこに持ってってあげて。本田さんと一緒に帰るところを、本当にごめん」
 誠さんの心からの詫びの声音に、「いやいや、誠さんが謝ることじゃないですよー」とかぶりを振って、階上へと赴く。
 既に影を落とした調理場には、忘れられたように、本日の主役の青梅がちょこんと置かれていた。くたびれたビニール袋を手にした瞬間、私の目からは、堰を切ったように、大粒の涙が溢れ出した。
 甘かった。きっと、冷静に向き合ってくれれば、きちんとわかってくれるだろうと思っていた。しかし、それは私のエゴだった。私は、自分のことにばかり気を取られ、繭の気持ちを、すっかり蔑ろにしてしまっていた。
『今回のイベントを通して、改めて私のポリシーを彼女には、はっきりと伝えたいです。もし、それが拒否されても、その時はその現実を、しっかり受け入れようと』
 先日、博人さんに豪語した一言、その滑稽さ、惨めさに一層喉元がえずいた。
 袋から零れ出た青梅が、無造作に床へと散らばる。あの時も、無意識に、繭ならしっかり理解してくれるだろうと、高を括っていた。しかしそれこそ、自分だけが突っ走って、彼女の心の奥底の見えない傷を、十分考えていなかったことに他ならなかった。
 ぐしゃぐしゃの顔のまま、とりも直さず卓の奥に挟まった梅を取ろうと、四つん這いになる。鏡に映った醜い自分。ある種、繭を失った私は、〝三色〟にグラデーションされたドレスよりも、この姿の方が全く相応しかった。
 もういい、全ては自業自得。まだ私は、本日の役割を終えていない。気持ちを切り替え、腕時計を一瞥すると、私は機械のように梅をかき集めた。時間まで手元にあったタオルと保冷剤で目元を冷やすと、私は誠さんにLINEして江古田へと向かった。

    5

 週明けの月曜、一限が始まる前に、私は繭からの連絡で、大学の中庭広場へと呼び出された。
「ごめんね、こんな朝早くから」
「全然、今日は特に何も用事が無かったから」
 私の返答に、彼女は気にする素振りもみせず、木漏れ日の差すベンチへと腰掛ける。本日繭が二限からのスタートに対し、私は五・六限の講義だけだ。そのことを彼女は十分熟知しているにもかかわらず、私は苛立ちよりもそれを上回る申し訳なさで一杯だった。
「土曜日の一件。あれからね、私、色々考えたんだけど、やっぱり――」
「ごめんなさい!」
 彼女がゆっくりと口を開いた瞬間、私は先日行った自分の身勝手さに、間髪入れず頭を下げた。
「梅ジャム作りを口実に、由紀菜さんたちと鉢合わせするよう仕向けてしまい、本当にごめんなさい。私、繭との関係を壊したくない一心で、今回の件を企画した……きちんと向き合ってくれれば、繭ならきっと理解してくれるだろうって――」
 まだ学生の少ないキャンパスの中庭は、日中の酷暑の面影は全く無かった。涙交じりで懺悔する間、彼女は黙って、上目遣いで次の語を凝視した。
「でも、それは、全部私の独りよがりだった。自分のことやLGBTのことばっかり気にして、そもそも繭の心の内を全く考えてなかった。あれだけ『同性愛者は無理』って、断言してくれたのに……私は姑息な手を使って……」
 暫く慟哭する間、彼女は一つ息を吐き、隣の空間を促した。「とりあえず、座ったら」彼女の苦笑いに、私はべそを掻きながら、半人分距離を空けて腰を据える。
「今まで、ありがとう。一年半と短い間だったけど、私は繭と友達になれて……演奏パートナーとして過ごせて、本当に幸せだった」
「……ちょっと、何また一人突っ走ってんのよ。そもそも私が呼び出したのに、会うや否や、滔々と謝り出して」
「ごめん……でも、言いたいことは、分かってるよ。今後の伴奏の件だよね、わざわざ直接、面と向かってくれて、ありがとう」
 最悪の断罪を下される直前にもかかわらず、土曜日までのわだかまりを吐き出せたことで、不思議と胸が軽かった。私は最後の記憶とばかりに、これまで二人で通った渡り廊下を、目に焼き付ける。
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