二章二節 菊と秋刀魚

文字数 2,956文字


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 チャコールグレーのカーディガンを羽織ってもなお、マンションから出ると、一足早い秋の冷気を感じた。
 こんな日は美味しいものでも作って、明日から気持ちを立て直そう。久々の自炊をと江古田の商店街に繰り出すと、果たして例の鮮魚店が、「東北の秋刀魚、仕入れました!」の幟を掲げ、大勢の買物客で賑わいをみせていた。
「秋刀魚か……」
 こんがりと焼き色の付いた、油の跳ねる塩焼きが脳裏をよぎる。ふと何の気なしにお店に近づくと、老齢のマダムの合間から、グレーのスウェット姿の青年が、お会計を済ませ、通りへ姿を現す。
「ん?」
「あっ」
 浜田湯はここから随分と距離があるはずだが。気づけば正面から向き合った彼と目が合ってしまう。咄嗟に視線を彷徨わせる私に、彼は特に動じることなく、軽く一礼すると、すっと私の横を通りかける。
「あ、あの!」
 瞬間、私は声を出していた。
「ご、ご無沙汰です……もしかして……今晩は、秋刀魚ですか」
 田舎で育った名残の、極めて踏み込んだ挨拶がつい口を衝いてしまう。それでも彼は別段気にする素振りを見せず、
「こんにちは……そうなんですよ。寝込んだばあちゃんが『今日はどうしても、秋刀魚が食べたい』っていうものですから……ここ、うちからは少し、遠いんだけど、新鮮な魚が揃っているんですよね。後、近くのスーパーより、価格も断然安い」
 そう述べると、「もしかしてあなたも同じですか」と、私の空の買物袋をそっと覗き込む。
「は、はい。そのつもりだったんですが……」
 私は曖昧な笑みを浮かべ、店先のポップを眺める。
 そこには手書きの大きなインク文字で、一尾二百円の表記がなされていた。それは近年の秋刀魚の高騰からすれば、十分な値段設定だ。
 それでも秋刀魚は安いという共通観念で育ってきた私としては、やはりどうしても買うのに、躊躇してしまう。
「でも、まぁ、もう少し、経ってからでもいいかなって……それよりおばあ様、大丈夫なのですか? 寝込んだって、またどこか身体の調子が――」
 心配そうな顔を浮かべる私に、彼は肩を竦め、「これが原因です」と手首を太ももに打つ仕草を示す。
「僕も全くの同感です。でも『旬を食べなきゃ、江戸っ子じゃないって』一向に聞かなくて……あぁ、祖母なら大丈夫です。一昨日、大井でスって、深酒して帰って来た名残ですから。でも昨日はともかく今日も引きずるなんて……いい歳なんだし、そろそろ止めにしてほしいよ」
 おおい、すって。キョトンとする私に、「あっ、そうだ」と彼が突然、買い物袋から一枚の紙を取り出す。
「丁度良かった。話は変わりますが、実は来週末、うちで菊の季節湯をやるのです。それにかこつけて、現在商店街の皆様に、チラシを配布していて。
 当日は近隣の住民や〝僕の友人〟をも招いての簡単なおもてなしも行います。もしよろしければ、是非遊びに来てください」
 彼が差し出したPOPには、何やら『浜田湯の菊祭り』と題し、菊酒やら栗のご飯等のイラストが可愛いタッチで描かれていた。
「へぇ、菊の季節湯……わぁ、面白そうです! その日は確か、昼過ぎまで学校の用事があるので、それが終わり次第、夕方頃にお邪魔させていただきます!」
 私が目を輝かせ、破顔一笑で応じる。すると彼は、良かったとくしゃりとした少年のような笑みを湛え、お待ちしていますと告げ、去って行った。
「……菊祭り」
 そういえば、来週か。重陽の節句は。確か実家にいたこの時期は、母がよく玄関の式台に、スプレー菊を活けていたっけ。
 東京に来てからは、せわしない毎日で、季節の行事なんか、気にかけている余裕など全くなかった。
 静かになった通りに、微かに遠くから街のざわめきが聞こえる。私はほのかな心の温かみを感じると、そのまま、店先の残り少なくなった秋刀魚を一尾、買い物袋へと入れた。

「小川さん、どうでしたか、先月の音楽祭は……そういえば秩父からの帰り際に、石前君が随分とあなたのことを褒めていましたよ『あの娘は、この音楽祭が、きっとプラスに働いただろう』って……ティタローザとのレッスンは、そんなにあなたを変えるにたるものでしたか?」
 後期最初の個別レッスン。私の横で、相変わらず掴みどころのない、恵比寿のような笑みを浮かべる木谷先生に、私は多少尻込みしながら、
「はい、それはもう最高の一週間でした……それで木谷先生。唐突なんですが私……ピアノに全力で打ち込むのは、この大学四年間までにしたいと思います」
 開口一番、話そうと思っていた想いを口にする。瞬間、彼は一種の驚きと諦めの入り混じった表情へと転じ、
「へぇ、それはまた一体――何も卒業後の進路を決めるには、大学一年のこの時期。まだまだ焦る必要は無いと思うけど……」
「いえ、これはもう、私の決めた道です。すいません、理由はつぶさには言えませんが、でも……だからこそ、残り三年半。完全燃焼する気持ちで、きちんとピアノと向き合っていきたいです」
 私の脳裏に、あの音楽祭を通し、垣間見た多くの演奏者の、夢への正負の表情が思い浮かぶ。それはどこかで区切りをつけないといけないもの。それをさらっと受け流す程、自分にはやはり、天賦の才能は無いのだ。
「ふぅん……わかりました。それじゃ小川さんには『ピアノは卒業まで』という前提の下、改めて今後のレッスン方針を作り直してみます」
「すいません。先生への相談も無しに、勝手に決めてしまって」
 少し寂し気な表情を浮かべる先生の横顔に、つい頭を下げてしまう。すると先生は何を言っているんだい、と珍しく語気を荒げ、
「何を謝る必要がある! いいかい、あけび。そもそも、君はなぜ、うちのピアノ科に入学したんだ……少なくとも四年間、自身の基盤としてピアノを、一層磨きをかけたいと思ったからだろう。
 そして今、君はその磨き上げる期間を残り三年と少しと正式に決めた訳だ。だったらその間に、最高の玉にするべく、僕はただただ力添えをするだけだ」
 やや投げやりに、それでもその端々に深い愛情が満ち溢れており、私はそっと目頭を抑える。何も泣く必要なんかないさ。彼はそこでふと優しくそれでも毅然とした声音で、
「それに僕と小川さんの目標は、ロビーコンサートに選出され、あの年に一度のホールに立つことなんだ。その先がいらないんだったら、そこだけに焦点を当てて、レッスンに励むことが出来る」
 そう述べるや彼は「それじゃレッスンを始めましょうか」と先日の帰京時に、車内で手渡された三冊の楽譜を改めて提示する。
「さて、以前も話した通り、小川さん。あなたには来年一月開催の『若手パフォーマーピアノコンクール』に出場してもらう。一次は前期に弾いた『ピアノソナタ第五二番』にするとして。二次以降はこの三冊の中からの一曲にしてもらう。
 既にそれぞれの譜読みは行っていると思うけど、改めてどの曲を披露したいか。次のレッスンまでに、最終確定しておくように」
 彼の有無を言わさぬ口調に、私はハンカチ片手に神妙に頷く。
 彼はそれを見つめると、安心したようにふぅと一つ息を吐く。それじゃ今日はこの辺で。あぁ、最後に音楽祭で得た曲の中から一曲弾いてよ。彼のいつもの飄々した口調に、私も漸く小さな笑みを浮かべ、鍵盤に指を滑らせた。
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