三章十三節 彼女だけの主旋律(三)

文字数 2,328文字

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 六月に入ると、肌に絡みつくような地雨が、うんざりするほど毎日のように続いた。
 その日は朝から肌寒く、私は先日仕舞ったばかりのニットワンピを、溜息を吐きながら取り出す。大学でひと練習済ませ、少し早めに浜田湯に向かうと、珍しく千恵さんが、下足箱の埃を手慣れた手つきで払っていた。
「こんにちはー、わっ、千恵さん、お久しぶりです!……先週まで入院されていたんですよね……お身体の方は――」
「おー、学生さん、こんにちは……ふん、季節の変わり目に、少し食欲を失っただけよ。病院で点滴を打って貰ったおかげで、今ではもう――」
 そう言うと彼女は、にんまりと、腕こぶしを作る素振りを見せた。「そうですか。それを聞いて、安心しました」私がほっと胸をなでおろすと共に、彼女は「心配かけたね」と幾分柔らかな表情で、
「でも、まぁ、今の私はすっかり安心よ。前までは、私がいないと、ひろちゃん一人ぼっちだったけど、今は恭介君に今井さん、多くの仲間を、あの子は持つことが出来た……学生さん、ちょっといいかい?」
 そこで彼女は一息つくと、ゆったりと休憩所のソファへと腰掛ける。
「どうしたんですか、千恵さん。急に」
 普段はあまり自ら語ることのない博人さんの話題に、私は動揺しながらも彼女の下へと近づく。「まぁ、いいから座んなさい。開店前だし、あの子は丁度、外に追いやったところ」垢切れたしわくちゃの手に促され、私は恐る恐るソファに腰掛けると、彼女は以前よりやせ細った左足をそっとさすり、
「角の三丁目であなたに助けられて、もう一年になるのかねぇ。まさか、あなたが、うちで働いてくれるなんて。あの時には、夢にも思わなかったよ」
「ははっ、それで言ったら私もですよ。昨秋の菊祭りで、由紀菜さんたちと出会えたおかげで。彼女たちのアプローチで、銭湯で働くことができ、幸せです」
「幸せ……そうかい」
 そこで彼女は口を噤み、既に何十年過ごした室内を、噛み締めるように眺め、
「ねぇ、あけびちゃん……一つ聞いてもいいかえ?」
「ん、なんですか?」
「音大ピアノ科のあなたが、なんで、家で働こうと思ったんだい? 銭湯が好きだから? それとも……私はあんまり詳しくないけど、LGBTとやらに、うちが寛容だから?」
「えっと、それは……」
 彼女の濁った瞳に、私は左手を頬に添える。確かに浜田湯がきっかけで、銭湯が好きになったというのはある。それにLGBTに寛容というのも、重要な要素だ。それでも、もっとこう、本質的な。私はすっかり静まり返った〝格天井〟をおもむろに眺め、
「なんていうか……初めて訪れた時、ここが凄く居心地の良い場所に思えたんです……都会の喧騒の中に、こんな温もりに満ちた空間があるなんて。そしてそれを生み出している、博人さんや千恵さんのお傍に、私もいることが出来たらなって」
 まぁ、きっかけは由紀菜さんたちが作ってくださいましたし、後、純粋にお金を貯めたいというのもありましたが。私は苦笑いを浮かべながら、リュックから前掛けを取り出す。そして彼女はそれを、幾分納得した表情で見つめ、
「そうかい。多少予想していたとはいえ、あなたの口からその言葉を聞けて、安心したよ……つまり、あけびちゃんは浜田湯……もとい、ひろちゃんのことが好きなのよね」
 合点がいったとばかりに頷くや、私は「え、なんで、そうなるんですか!?」と顔を真っ赤にして否定する。それでも彼女は、すっかり腹が落ちたと、おもむろに立ち上がり、
「あの子も最近、しょっちゅう学生さんの話をするのよ。ブラシ磨きが上達してきただの、備品の詰め替えの手際はまだ甘いだの。実に嬉々とした顔で、私に語ってくれるのさ」
「いや、それって。単純に、浜田湯の仕事を早くマスターしてくれって意味なんじゃ……そもそも博人さん、バイセクシャルですし――」
「なに言ってんだい。七〇年も生きていれば、そこに色恋の情が入っているか否かぐらい見分けがつくよ……あの子、男女共に好きになるって性分なんでしょ。私は十分にそれを受け入れていたけど、やっぱり女の子に好意を抱いてくれたのは、心の底から嬉しいね」
 半ば決めつけるような発言に、私が口を出せないでいると、まぁ、どうなるかは二人の問題だけど、と彼女は予め断った上で、
「あけびちゃん。改めて、ひろちゃんのこと、よろしく頼むね。私は正直、浜田湯の存続とかには、あまりこだわってないんだよ。ただただ、〝彼女〟には、幸せになってほしい。わたしゃ、それだけを望んどる」
「千恵さん……やめてください、本当なんで私なんかに――」
 いつしか彼女が深々と首を垂れている状況に、私が混乱しかけ立ち上がると、表の戸が建て付けの悪い音を響かせ、
「ばあちゃん……冷やしぜんざい買ってきたよー。急に食べたいから、買って来いだなんて。食欲不足じゃなかったら、絶対行かなかったわ」
 そこには珍しく男性姿な博人さんが、すっかり疲れ切った表情で、傘をしまいかけていた。
「全く、あの子は本当に仕事が早いね……」
 彼女が小さく呆れ声を放つよりも先に、〝彼〟はそこで私がいることに気づくと、「おー、小川さん、今日は早いね。何、ばあちゃんと密談中?」と、意地の悪い顔で、買い物袋を卓上へと載せる。
「いや、図らずも、そうなったと言いますか……」
 私が言い訳がましく、こっそり前掛けを仕舞うと、途端に千恵さんは、既に私など眼中にないとばかりに、
「ごくろーさん、ひろちゃん、ありがとー!さぁて、用事は済んだし、家に帰って、お茶でもしようかねー」
 そう呟くや、実に機敏な動きで、「銘菓 茅の誉」と書かれた器を手に取り、そのままステップでもしそうな勢いで、裏口へと去って行った。
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