一章七節 前日譚、変わらぬ日常

文字数 979文字

 翌朝、窓からの木漏れ日で目が覚めた。昨夜は、シャワーも浴びずに、寝落ちしてしまったためか。周囲には荷物が散乱し、シャツはツーンと汗臭い。
「……あぁっ、喉乾いた。とりあえずお風呂に入るか」
 身体を清潔にし、朝食を済ませると、部屋の中央のピアノ椅子に腰かける。
 リュックから楽譜を取り出し、先日木谷先生から手渡された、課題曲をぼんやり譜読みする。
 ラヴェルの組曲、「鏡」より「海原の小舟」。不規則なアルペジオと振音が求められる構成は、読んでいてすぐに心が折れそうになる。でも。それでも、せっかく掴んだ数少ないチャンス。楽譜を掴んだ手に、自ずと力が入る。
「一度にあるか無い、絶好の機会なんだ。このきっかけをものにして。私は、ティタローザ先生との、何かしらの繋がりを――」
 
 翌日から私は丸一月、自宅に大学の練習室にと一日の大半を、来るべき音楽祭の課題曲に費やした。
 その一方私は、ウィーンへと旅立つ本田・三浦カップルの見送りに、羽田空港にも足を向けた。
「あけびー! 暫しのお別れだね~! お土産に本場のザッハトルテ買ってくるからー!」
 保安検査場へと去って行く繭に、私も大きく手を振り返す。
 恋人と本場ウィーンで大好きなフルート修行が出来ることに、繭の頬は終始緩みっぱなしだった。
 しかし折しも、課題曲の壁にぶち当たっていた私は、期待に胸高鳴らせる繭よりも、緊張と不安に露骨に顔を歪める三浦君の方が、遥かに同情的かつ心を奪われた。

 そして、音楽祭の二日前。私はふと思い立ち、あの日以来久々に浜田湯へ訪れた。その日番頭として番台にいた千恵さんは、私を見ると、随分ご無沙汰じゃないかぇと目を輝かせた。
「お久しぶりです、お怪我の方はもう、大丈夫なんですか?」
 私の問いかけに彼女は、なぁに、あんなのとっくに治ったさと、ポーンと痛めていた左足を叩く。
「わっ! それは良かったです。でも決してご無理なさらないでください!」
 その後、雑談の流れで、私が音大生のピアノ科であることを告げると、彼女はやっぱりね、この辺にはそういう子が多いからと、特に驚く素振りも見せなかった。その上で、明日から暫くピアノ音楽祭に参加することを話すと、
「そうかい、頑張ってきなさいよ! 良くも悪くも、ここが貴方にとって運命の分かれ道かね――」
 何やら含みを持った言葉で、私を風呂場へと送り出した。
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