三章二節 番頭はじめました!(二)

文字数 3,111文字

 レッスン室を退くと、廊下は二限終わりの生徒ですっかりごった返していた。私は階段を降りながら、スマホのアプリを流し見る。新たに更新された時間割、本日はこの木谷講師の「ピアノ実技Ⅱ」一コマだけだ。
 学食で早めの昼食を済ませると、やや逡巡したものの、そのまま雑司ヶ谷のキャンパスを去ることにした。本来なら練習室にて、たった今与えられた前期課題曲の、腕慣らしをしてもよかったが、今日は週に二日の浜田湯アルバイトの日だ。
 のどかな昼下がり。陽春に呼応するかのように、駅前の繁華街は一層浮ついているようにも見えた。道すがら、どこかの大学のサークルが、新歓コンパで賑わいを見せている。
 私はそんな彼らに苦笑いを浮かべながら、駅舎へと入り込む。
「いいかい、恋をするってことはね、音楽に十分プラスに働くんだよ。そもそも、芸術の本質は人間の迸る感情から生まれるんだ。正負問わず、表現者に狂おしい〝愛〟があってこそ、音は一層彩りをみせる」
 先程大真面目に恋を語っていた、師の言葉の一節だ。彼の柔らかく、芯の入った声に私は咄嗟に、同門の三浦君と付き合っている繭を思い出す。
 先日久々にセッションした際、その技量はさておき、彼女のフルートの音は、前より一層華が出ているようにも思えた。
「私ね、バイト先の店長の紹介で、来月、ライブハウスに出演することに決めたんだ! 侑磨やあけびが輝いている姿を見て、私も私なりに、一歩踏み出してみたいなぁって」
 その時はあけびも絶対観に来てよー、そう話す彼女は、まさに私より、幾倍も輝いているようにしか見えなかった。
 改札を抜けると、地上の春の喧騒は跡形もなく、常時の雑踏に満ちていた。気怠げにスマホで話すサラリーマン、慣れないスーツ姿の新卒社会人、私はそんな彼らと肩を並べ、滑り込んできた真っ白な車体へと飛び乗った。

    2

「こんにちはー」
 江古田のゆうゆう商店街の一角。暖簾がまだ内側に隠された扉を開けると、丁度博人さんが休憩所脇のモンステラに、ケロリン桶で水やりをしているところだった。
「こんにちは。ふふっ、今日も早いねー! そんな焦んなくったって、もう少しゆっくりでもいいんだよ」
 伸ばした後ろ髪をシュシュで束ねた、ユニセックス姿の博人さんの一言に、私は「レッスン終わりの時間は、中途半端なんです」と息をふぅと吐き、リュックを番台裏手へと置く。
「それなら、どこかで少し、桜見物とかして来ればいいのにー。明日雨予報だし、下手すれば今日が見納めになるかもよ」
 そう呟きながら、券売機横に立て掛けられたモップを、はいと手渡す。そのままちらと正面の時計を見やった博人さんは、へこりと微笑み、
「男湯と女湯、それぞれの脱衣所のモップがけだけまだだから、準備出来次第任せちゃってもいいかな。まぁ、開店までまだ一時間近くあるし、のんびりで構わないよ」
 可愛げな顔立ちのまま、手をひらひらさせる姿に、私は「わかりました」と微笑み返し、そっとモップを受け取る。
 この浜田湯で利用客から従業員になって一月弱。未だこの〝優しさ〟に満ちた空間で働くことに慣れていない。「あっと、タオルを取り出すのを忘れてた」思い出したように併設のランドリーへと駆けて行く〝彼〟の姿を眺めながら、私はようやく肩の力を抜き、脱衣所へと向かった。

 きっかけは、学内反省会から、さらに二週間が過ぎた、冬の寒さが際立つ、週末の深夜のことだった。
『あけびちゃん、夜遅くにごめん! もし可能なら、今から浜田湯に来られたりする?』
 繭とのセッション用の譜読みに区切りをつけ、今日一日を終わらせようとしたところで、由紀菜さんから唐突なLINEメッセージが届き、私は文字通り飛び上がる。
「由紀菜さん? え、今から――」
 すかさず目先の置時計に目をやると、黒の液晶は二三時五分を指し示していた。確かにまだ閉店まで二時間弱あるが、こんな真夜中に、一体何事だろう。
 しばし考え込んだものの、私は『大丈夫ですよー!』と返信を打つ。壁にかけたダウンコートを羽織り、急ぎ準備を進める間、彼女から届いた、仕事先の漫画キャラの謝罪スタンプが妙におかしかった。

 暗く凍える夜道を歩いて十分弱。真っ暗闇にほのかにネオン看板が灯された浜田湯をくぐると、イベント時でないにもかかわらず、休憩所には瑞希さんを除く四人のLGBTが、話に花を咲かせていた。
「あ、お疲れ~。ごめんね、こんな深夜に、しかも急に呼び出しちゃって! でも、善は急げって思ってさ……唐突なんだけど、あけびちゃん、バイト先を探しているんだって?」
 一体何の話かと思えば。私は訝し気に、いたずらっぽく笑う彼女と女性姿の博人さんを交互に眺めると、〝彼女〟は「話の流れでね」と特に悪びれもせず、肩を竦めた。
「まぁ、別に隠す必要も無いですけど……そうなんですよ。今どうしても欲しい楽譜が数冊ありまして。基本お金は親から工面していただいているのですが、そろそろ生活費の一部くらい、自分で稼ごうかなと思いまして」
 参加費や諸経費を出していただいた手前、先日のコンクール結果は、真っ先に両親には報告している。二次予選落選、その過程は穿つべくもなく、あくまでその結果のみを告げたところ、電話口の先で彼らの明らかな落胆の表情が透けて見えた。
 入学前に四年間の金銭の保証は、両親から言質を取ってはいる。しかしこの一件が全てではないものの、自分の出来る範囲で、少しずつ両親の負担を減らしていってもいいのではないか。俺たちはひょっとして、ドブ溝に大枚をはたいているのでは。そう両親に思われないためにも。どだいピアニストになる夢は既に諦めているのだから。
 そう思い、一昨日の湯上り「実は私、アルバイト初めてみようかと思うんです」と博人さんには軽く告げてはいた。「そうなんだ。小川さんなら、どこでだって働けそうだと思うけどね」番台の入浴品を補充しながら、〝彼〟にはそうさらりと受け返されたものの、まさか二日後にこんな展開になるとは。
「やっぱり! それでさ、さっき俺らで話し合ったんだけど、あけびちゃん、良ければさ。いっそのこと、この浜田湯で働いてみたらいいじゃん!」
 まくし立てるように、先週のみかん湯のイベントを通し仲良くなった恭介さんの言葉に、私は思わず切れ長の目を何度も瞬いてしまう。
「さっき、ひろに聞いたらさ。『この後彼女がこの場に来てお願いしたらね』って言うから。ほら、これでもう後戻り出来ないぞ」
 普段は大人びて、口数の少ない誠さんがニヤニヤと博人さんを眺めると、〝彼女〟は「いや、まぁ、ばあちゃんも、ほぼ引退状態だし。人手がもう一人いるのは、こちらも一向にありがたいことなんだけどね」と対抗するでもなく、小さくぼやく。
 その上で博人さんは観念したように正面から向き合う。潤いを帯びたストレートの地毛にグレーのシャツブラウス。ほのかに顔に施された化粧。
 しかしその目の奥は、これまでの辛い過去を経て得た揺るぎない意志と澄んだ優しさに満ちていた。
「それじゃさ……まぁ大して儲からないけど、小川さんが良ければ、うちで働かない?」
 断るはずも無かった。最後の言葉が言い終わらぬうちに、私は興奮した声で、
「え、めちゃくちゃ嬉しいです! はい、是非、働かせてください!」
 私の大声と呼応して、よしこれで決まりだと三人の柏手がポーンと室内に響く。
 こうして私は翌週から週二日、時間に余裕があるときは半日のペースで、浜田湯で働くこととなった。
 それは二年次、学校が始まってからも。時間を少し短縮したとはいえ、週に二日のルーティーンを変えることはなかった。
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