三章四節 番頭はじめました!(四)

文字数 2,485文字

 表の方から、耳慣れない声が響き渡った。慌てて視線を先に転じると、一人の恰幅の良い外国人が、少し強張った表情のまま、片手を掲げ、
「This is my first time to use a public bath. What should I do first?」
 そう述べるや、巨人の履くようなスニーカーを脱ぎ、こちらへと向かってくる。私は慌てて番台を抜け出し、
「ストップ、ストップ! えーと、ですね。靴はこちらにしまいましょうか。The shoes ……will be stored here.」
「Hmm……OK,OK!」
 彼が納得した顔で、下足箱へ靴をしまうと、私はすかさずカチッと錠をかける。
「シューズキー。必ず無くさずにご持参ください」
 鍵を手渡し、彼の透明なバッグに入れるジェスチャーをすると、その中に水着セットが入っていることに思わず気づく。
「あ、あー、すいません。うちの銭湯では水着を着たまま、湯船に浸かることが出来ないんですよ……Unfortunately……if you Put on underwear, you cannot enter Sento」
「Why? Until now, outdoor facilities have often been in swimsuits, and I'm reluctant to get naked in front of others!」
 途端に、理解できないといった顔で、激昂する彼に、思わず後ずさる。折しも背後からは別の利用客が、「すいません、タオルセット借りたいんですが!」と荒げる声が聞こえた。
「は、はい! 少々お待ちください! え、えぇと、なんて言ったらいいんだろう。特別に許可してあげる? そんな、まさか――」
 脳内がぐちゃぐちゃにかき乱され、思考が瞬く間に停止する。泣き出したい思いで、二の句が継げないでいた刹那、目先の暖簾がパッと揺らめき、
「お客さん。ごめんですけど、うちでは下着を全部脱いで、入ることが決まりなんです。それが出来ない場合は、申し訳ありませんが、入浴をお断りしています」
 丁度買い物から帰った博人さんが、大きな荷物を引っ提げたまま、英語のパンフレットをすっと彼に手渡した。
「O, oh……sorry……I didn't know that. Then……I will use it at another opportunity」
 彼はその手渡されたパンフレットをくまなく一読すると、やおら残念そうな顔を浮かべ、鍵を博人さんへ手渡した。
「ごめんね。衛生面の観点から、どうしても水着は許容出来ないのよ。その分、お風呂の質は保証するから」
「Sorry. Not acceptable from a hygienic point of view.Then……」
 私が博人さんの言葉を英訳すると、彼は納得した表情で、用意した靴を履き、表へと去って行った。
「あ、ごめんなさい、新垣さん! タオルセット、手前の持ってって良いよ! お待たせしたお詫びに、今回は、お代は結構です!」
 すかさず博人さんが奥の客に叫ぶと、彼は「そうかい。それは得したな」とニコニコした顔で、脱衣所へと消えて行った。
 再び静まり返った店内。〝彼女〟はよいしょ、と荷物を小脇に置くと、「ごめん、お待たせしちゃって! ちょっと、どこの家電店もお目当てのものが見当たんなくって」と申し訳なさげに頭を下げた。
「すぎます……」
「え?」
「博人さん……遅すぎます! 戻るのに時間がかかるなら、一言ぐらい連絡くださいよ! さっきの人、私凄く怖かったんです! 腹いせに、手を出されるんじゃないかって……私、本当に……体が動かなくって――」
 思わず身体が震え出し、大粒の涙が零れ出る。あれ、なんでだろう、私。どうして、こんなにもホッとしているんだろう。しかも子供のように胸中を包み隠さず、一方的に、相手にぶつけてしまうなんて。
 困惑したまま、必死に涙を拭った途端、全身が優しい温かさに包まれる。ややあり私は、博人さんに抱き寄せられていることにやっと気づく。〝彼〟は労わるように、そっと背中をさすると、「まさかこんなに辛い思いをさせてしまっていたなんて。本当にごめんなさい」と震える声で詫びを入れた。
「……いや、大丈夫です! すいません、私の方こそ、突然取り乱してしまい!」
 全身がサウナ後のように朦朧として熱い。思わず恥ずかしさから、咄嗟に突き放すと、博人さんはポカンとした表情のまま、無意識に頬を一つ掻く。
「ちょ、スキンシップが著しいです! あ、もう本当、私は大丈夫ですから……それにしても、お目当てのものって。無事に買うことが出来たのですか?」
「あ、あぁ、うん……今月下旬、レインボーイベントがあるでしょ。それでさ、うちもそのタイミングで虹の湯をやろうかなと思って」
 すっきり気持ちは切り替わり、〝彼女〟が脇の荷物を広げると、その中には無数の行燈と多くのLEDライトが散らばっていた。
「へぇー、虹の湯ですか……」
「うん、今年はお店の都合でイベントには参加出来ないからさ。せめて、浜田湯に来た仲間たちだけでも歓迎しようと思って。ほら、この行燈にLEDを入れると、ほのかに色が浮かび上がって――」
 彼が試しに空の行燈にライトを灯すと、おぼろげに黄色の光が宿された。
「わ、凄い! あ、ということはこの中にも、違う色のライトが!」
「そう! 全部で七色の行燈を作る手筈さ。まぁ、準備はもう少し先になるから、とりあえずこいつらは、家の物置に置いておくよ」
 博人さんはそう述べると荷物をまとめ、裏の自宅へと帰って行った。
 私はそれを見送ると、再び番台へと戻る。幸いこの間、表からも脱衣所からも、利用客の姿は見られなかった。
 パイプ椅子に座ると、なおも心が張り裂けんばかりに脈打っていることに漸く自覚する。しかし先程の絡みつくような不快さは消え、代わりにその心地良い興奮に、私はそっと張りの効いた前掛けを静かに触った。
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