三章七節 I have pride my honest emotions(三)

文字数 3,225文字

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「小川さん、お疲れ様。どうよ、お客様の反応は?」
 いつも通りの作業をこなしていたら、あっという間に二一時が過ぎていた。それまで外にでもいたのか、スプリングコートに手をかける博人さんに、私は興奮した声音で、
「おかげさまで、大盛況です! 翔さんや康行さんはじめ、多くのLGBTの皆さんは『お風呂でも、自分たちが肯定されたー』って、満足そうに帰って行かれました。常連さんも、浴室のやわらかい虹色に、まるで極楽に来たみたいだって、ほとんどの人は高評価です」
 満面の笑みを浮かべそう述べると、〝彼女〟は「良かったー。いや、翔や康行は、さっき飯屋で聞いたんだけど、他の皆さんも喜んでくれたのなら、試みた甲斐があったよ」とほっとした顔で、胸をなでおろした。
「それじゃあ、そろそろ上がっていいよ。今日はガスのトラブルで、終始バタバタさせて、悪かったね。この後、由紀菜たちと飲みに行くんだって? 楽しんで行きな」
 すまなそうに微笑を湛える〝彼女〟の一言に、私は「いえいえ。あぁ、もう、既にご存じなのですね」と相好を崩し、前掛けを外す。
「さっき由紀菜からLINE来てた。早く一緒に飲みたいから、上がらせてあげてって。結局、定時まで働かせてしまったけど――」
 入れ替わるように博人さんが、もう何年以上も座り続けた、パイプ椅子へと腰掛ける。茶髪のショートボブのウィッグ、中性的な顔立ちに合わせたナチュラルメイク、黒のシースルーブラウスにチェックのスカート。イベントに応じた完全女性な装いとはいえ、その自然な美貌に私は思わず、
「それにしても、今日は本当美人ですね――」
 つい本音が口を衝いた途端、〝彼女〟が「え?」と上目遣いにこちらを眺める。その仕草すら、所謂一般女性となんら変わらず、私は慌てて、
「いや!……さっきの翔さんの話じゃないけど、確かになんで彼氏、ん? ちが、彼女作んないんだろうなって。博人さん、男女どちらでも、美形ですし。その気になれば、相手ぐらいすぐ――」
 これまで感じていた率直な意見を述べた途端〝彼女〟は「小川さんまでそれ言う」と苦笑いで、帳簿を手にした。
「別に作んないって、訳じゃないよ。前も話したと思うけど、おじいちゃんが病気になってからはもう、脇目もふらず、この浜田湯に尽くしてきたからさ。
 とはいえ、LGBTもそこそこ認知されるようになってきたし、浜田湯もこうして小川さんが手伝ってくれるようになったから。そろそろ自分の時間を割いてもいいかなー」
 試すような微笑を浮かべる〝彼女〟に、私は「本当ですよ、私、応援しています!」と述べながら、胸の奥底がチクリと痛んだ。
「それじゃ、お先に失礼させていただきます。今日は皆さんが喜んでいただき、とても幸せな一日でした。次は水曜日ですかね、またよろしくお願いします!」
 ぺコンと頭を下げると、〝彼女〟は「うん、またね」と片手を上げ、再び帳簿へと視線を向けた。
 それにしても時間になっても、由紀菜さんから連絡が来ないなぁ。スマホを眺めながら、踵を返しかけた時、後ろからふと、思い立ったような声音で、
「そういえば、小川さん、今日の服装だけど、凄く似合っているよ。てっきりお相手とデートなんじゃないかって、思わずちょっと、嫉妬しちゃうぐらい」
 振り返ると全く自然な口調のまま、とびっきりの美しい笑みで首を傾げる〝彼女〟の姿があった。
「な……ちょっ!」
 予想だにしない一言に、瞬く間に顔が真っ赤に染まる。私は衝動的に、つかつかと相手へと詰め寄ると、
「そんな訳ないじゃないですか!? といいますか、博人さん。この前もそうですけど、急に距離詰めてくるのやめてください! 純粋な言葉なんでしょうけど、私からしたら――」
 と言いかけて、ハッと口を噤む。
「私から……したら?」
 鳩が豆鉄砲を食ったように、目を丸くした〝彼女〟の空気を断ち切るように、脱衣所から「アイス食べたくない?」と和やかな会話を交わす親子が姿を現した。
「あ……ごめんなさい、失言でした!」
 私はそこで我に返ると、一目散に下足所へと駆けだしていた。お気に入りのスニーカーを履く背後からは「お姉さん、アイスちょーだい」と呑気な声を発する子供の声が、否応なく響いた。

 間髪入れずに外に出ると、通りは春の冷たい夜風が、なおも厳しく吹き荒んでいた。
「あー、ニットカーディガン持ってきて、本当良かった……」
 辛くもその寒風で、幾分頭が冷静になったところで、ようやくスマホの着信が鳴る。
『ごめん、遅くなって! 駅前の焼き鳥屋!』
 そこには由紀菜さんの簡潔な一文と共に、お店のURLが添付されていた。私は一つ嘆息すると、すっかり慣れ親しんだ駅前への道を、ゆっくり歩き始める。
「本当、遅すぎ……もう数分、早く連絡をくれれば」
 そうすれば、あんな恥ずかしい思いはしなくてすんだのに。身体は無意識のうちに、襟を掻き合わせていたが、顔面はなおものぼせたように、ぽわぽわと熱かった。
『そんな訳ないじゃないですか!?』
 先程の啖呵を切った一言が、否応なくフラッシュバックする。同時に、純粋に不可解とばかりに唖然とした博人さんの表情。私は思い出す度、怒りとそれとは別な心のざわめきを、感じずにはいられなかった。
「うん、私は悪くない……悪くないから――」
 そうなんとか自身に強く言い聞かせたところで、ふと裏路地の公園にて、件の虹色のタオルを肩にかけた二人の青年が、仲睦まじく語り合っている姿を見かけた。
 さっき浜田湯で見かけた顔では無かったが。ベンチに腰掛けた二人は、楽し気に会話を繰り広げていたものの、やがて顔を近づけ合うと、躊躇うことなく、熱い抱擁と愛の口づけを、長く密に交わし始めた。
 私は思わず視線を外す。そこには、所々に明かりが灯された夜の街並みが、何ら変わることなく一面広がっていた。
 私はそのまま公園に視線を戻すことなく、黙ってそっと歩き出す。と同時に胸の底から言いようの無い不快感が、まざまざと湧き出るのを、はっきりと感じた。
 それは目の前のゲイカップルの愛を目の当たりにした、純粋な嫌悪感などでは無かった。ただ単に、博人さんもかつての彼氏と、あんな風にキスをしたのだろうという、純粋な嫉妬。
 瞬間私は、これまでの心のわだかまりの大元をようやく認識する。
 あぁ、そうか。私はあの人のことが、いつしか好きになっていたんだ。
 それは昨秋の菊祭りやこの前のコンクールでの一件を通し感じた、尊敬や共感への喜びとはまた別な感情。気づけば私は〝彼〟に対し、羨望を超えた恋心を抱いていたのだ。
 初めて湧いた、歪な感情の正体に動揺すると共に、自分でも驚くほど、さっきまでの不快さが鳴りを潜めたのを、恥ずかしながら自覚せざるを得なかった。
『君が何よりも経験しておくこと……それはね、恋をすることだよ』
『ねぇねぇ、あけびは彼氏とか作る気ないの!?』
 尊敬する講師と大親友の言葉が、交互に想起される。正直、この十九年間、うわべだけの恋愛は何度か経験してきたが、そのどれもがしっくりこず、ピアノを出しに長続きをすることはなかった。
 しかし今は、この内なる激しい感情のまま、〝彼女〟の隣にこそ、自分が特別にいたいと想う。と同時に、先日恭介さんや康行さんに見せた親し気な態度、或いは先程自身に向けられたなんら飾ることの無い笑みにいまだかつてない胸の締め付けられる苦しみも感じた。
 表の通りへと戻ったところで、再びスマホの着信が鳴った。
『あけびちゃん、遅くない!? もう、既に三人で飲み始めちゃってるよ笑』
 そこには〝ぴえん〟の絵文字と共に、乾杯する三人の写真が送付されていた。正直、由紀菜さんには、この想いをぶちまけたかったが、今日はともちゃんがいる手前、一旦蓋をする方が良さそうだ。
 私は、すっかり冷えた手で顔を叩くと、芽生え出した内なる欲望を強引に沈め、颯爽と駅までの道のりを駆けた。
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