一章十四節 埼玉ピアノ音楽祭(七)

文字数 3,879文字

 初日で既に大まかな格付けが終わったのか、二日目以降の石前講師は、生徒ごとにその対応を露骨に変えていた。
 無論さすがに受け持ちの四人の個別時間は均等に割り振られ、またその対応時は実に的確なアドバイスを、私たち四人には施してくれた。
 しかしながら私と童顔坊は、徹底的に課題曲の鍛錬に主眼が置かれているのに対し、エラ張りと能面美女(ピアノしか生きる術は無いと豪語した苦学女生、苗字を根本といったか)には、レッスンによる個の引き伸ばしとそれに見合う新しい課題曲の提示を惜しげもなく提示していった。
 レッスン三日目、この日も私は相変わらず無言歌集Op.五三-六並びに三〇-四の演奏向上に勤しんだ。
 もう何度と弾いたか分からない旋律。既に一音一音すら脳裏に焼き付けられた最後のワンフレーズを、私は〝行き場を失ったように〟そっと弾き終える。
「……小川さん、良くなってますねぇ。最後の『さすらい人』実に情熱的なメロディーに仕上がっていましたよ――さてもう無言歌集は良いですかね。あなたには次にショパンでも弾いてもらいますか」
 そう言うと彼は予め用意していたのか。ピアノの屋根からOp.一〇-五『黒鍵のエチュード』の楽譜を私に手渡す。
「これ、明日のレッスンまでに仕上げてきてください。少々技巧的ではありますが、随分小川さんらしい曲だと思いますので。それじゃ、よろしくお願いします」
 そう述べた彼のやや労りの篭った一言に、私の内心は瞬く間に喜びで溢れ返った。
「は……はい! ありがとうございます、頑張ります!」
 直前の榎本さんの稽古では、彼はなおも無言歌集の駄目出しを突き付けていた。ということは私には漸く、及第点に至ったということか。
 私の返答を聞いてか否か、彼はおもむろに立ち上がる。目前には既に本日の個別レッスンを終えた三人の生徒。その隅の席に私が戻ると同時に、彼は実に愉快気に四人を見回し、
「それでは今日も皆さん、お疲れさまでした。さて、私と皆さんのレッスンも残り二日となりました。そこで、短い時間ではありましたが、最終日に是非、披露会を催したいと思います」
 彼のニヒルな口調に、室内が小さくはっきりとざわめく。披露会、横で小さく呟く永田さんをよそに、私の脇に嫌な冷や汗が滴った。
「持ち曲は、榎本君は無言歌集Op.五三-六。小川さんはさっき手渡した『黒鍵のエチュード』でいきましょう。
 そして永田さんと根本さんは、それぞれ今弾いている『幻想即興曲』と『シテール島の鐘』で。なおこの披露会の出来栄え如何によっては、私が主催する冬の関西学生ピアノコンクールにも出場してもらう予定ですから、心して練習に励むように」
 
 レッスン後、追い立てられるように、練習室に向かうと、運悪く全てのグランドピアノは埋まっていた。私は最後の右隅の一室を確認すると、そのまませんかたなく、練習室の壁にずるりもたれかかる。
「おー、お疲れ、小川さん……ん? もしかして。練習室空いてない感じ?」
 とその時。左斜め前、Bとでかでかと記されたガラス扉が開かれ、中から大内さんが一息ついた顔で、こちらに視線を向けた。
「あ、お疲れ様です! そうなんです、残念ながら……もしかして、大内先輩の練習室、この後、空いたりしますか?」
「あー、ごめん。お手洗いに出ただけで、この後、もう少し使いたいんだ。でも、もう一時間、待ってくれれば、そのまま小川さんに交代するよ」
 彼女の提案に、私はスマホのホーム画面を眺めた。一八時一〇分、正直一時間のロスはあまりよろしくない。それでも、万一、一時間経っても部屋を確保出来ない可能性を考えれば、ここは確実性を取りたい。
「ありがとうございます! それではお願いしてもよろしいですか? また一九時過ぎぐらいに、私の方で、連絡させていただきます」
 私は、「うん、わかった」と彼女の言質を取ると、一旦自室へと戻った。

 部屋に帰ると、笹川先輩も出払っているのか、辺りはレッスン前と同じ、もぬけの殻だった。
 私はコーヒー片手に、一昨夜笹川先輩と星空観測をした籐椅子に腰掛けると、そのまま二冊の楽譜を手元に置いた。
 一冊目は、先程石前講師から手渡された『黒鍵のエチュード』。楽譜を開くと、六つのフラットが付されたタイトル通りの変ト長調曲が、目前に広がっていた。
〝披露会の出来栄え如何によっては、私が主催する冬の関西学生ピアノコンクールにも出場してもらう予定ですから〟
 先程の彼の最後の一言は、ほぼほぼ永田・根本両名に向けられた言葉といって間違いないだろう。
 それでも、四分の一ということも例に、僅かながら己にもチャンスがあるのではという期待が、胸の中に生じるのを禁じえなかった。
 気づけば私は、あれだけ楽しみにしていたティタローザのレッスンが、心の脇に追いやられていることを自覚した。途端に言いようのない自己嫌悪に襲われ、慌てて『海原の小舟』の楽譜を掴む。
 すでにごまんと目にした楽譜の最終確認。その楽譜を開くや否や、目前のローテーブルに置いていたスマホが着信の音を知らせる。
 私は一つ溜息を吐くと、そのままホーム画面を確認する。そこには本田繭の名でLINEの新規メッセージが表示されていた。
「……繭」
 別れて一月経っていないのに、随分と懐かしい名前だった。私は一瞬、逡巡した後、そのままメッセージの開くボタンを押した。
『あけび~、久しぶり! 音楽祭期間中だよね、元気にやっているかい!? 今日ねぇ、久々に休みが取れたから、侑磨とシェーンブルン宮殿まで足を運んだんだ! 道中食べた、トゥルツェスニエフスキー、むちゃくちゃ美味しかった笑』
 そこには、繭には珍しい長文のメッセージと共に、何やらカナッペらしきものを頬張る二人のツーショットが添付されていた。
 私は無表情でそれを眺めると、特に返信することなく、そのままスマホをベッドに放り投げた。
「愛しの恋人とウィーン観光……か」
 私は羽田空港で別れた時の、頬の緩んだ繭の表情を思い返した。無論、これまで全く連絡をしてこなかったことからも、恐らく彼女は向こうでフルートの練習に明け暮れ、今日は文字通り久々の休日なのだろう。
 それでも私は、他の年相応の学生と同じく、 好きな人と音楽の都でデートする彼女が心底羨ましく、心が一層ざわついた。
 と丁度その時、ガチャリと戸が開かれ、笹川先輩が姿を現した。「あら、小川さんいた……」その言葉が言い終わらぬ内に、彼女はギョッとした顔でこちらへと近づき、
「小川さん、どうしたの!? 何か悲しいことでもあった?」
「え?」
 鬼気迫った彼女の表情に、咄嗟に手を顔に向けると、いつの間にか無数の大粒の涙が、頬に滴り落ちていた。
「え……いや、あれ? 別に悲しいことがあったわけじゃないです……明日に備えて譜読みをしていたら、たまたま友人からLINEがあって……え?」
 自分でも訳がわからず、しどろもどろに返答すると、ほぼ同時だった。私の視界が途端に、甘い微香のする真っ暗闇に覆われた。「ん? あぁ……」ややあって私は、笹川先輩の胸に、自分の顔が埋められていることに、漸く気づく。
「ごめんなさい。何があったかわからないけど、でも大丈夫。明日はせっかくのティタローザ先生とのレッスンなのよ。変に心を乱す必要なんかない。平常心で、大丈夫。大丈夫」
 彼女の囁くような純粋な励ましの一言に、私の心を穢していた汚れが一挙に掻き消えた。そうだ、あけび。何を雑念にとらわれているんだ。明日はあの世界的ピアニスト、カルロ・ティタローザとの個別レッスン。出世欲や周りの嫉妬なんかに捉われる暇なんかない。ただ純粋に、実りのある時間にしよう。
「……先輩、ありがとうございます。すいません、さっきまでちょっと、自分を見失ってました。でも、おかげさまで。もう大丈夫です」
 自分にも言い聞かせるように、そっと胸を起こす。すると、彼女は見極めるように私の瞳を覗き込み、
「そう……それは何より。ごめんね、愛しの後輩があまりにも辛そうな顔をしているものだから、つい衝動的に」
 そう述べると、漸く安心したとばかりに、先輩は少し顔を赤らめながら、ほっと胸をなで下ろした。
「恥ずかしい姿をお見せしてしまいました……ところで、先輩、どこ行っていたんですか? てっきり部屋にいるとばかりに、もしかして練習室ですか?」
「ううん。実はね、私も小川さんに話したいことがあって……」
 彼女がさっぱりとした表情でそう言いかけたところで、スマホの一九時を示すアラームがけたたましく鳴る。あっ、私が素っ頓狂な吐息を漏らすと、先輩は出鼻をくじかれたとばかりに露骨に苦笑いを浮かべ、
「何、なんかこの後予定でもあるの? ごめんね、邪魔しちゃって」
「いえ、大内先輩から一九時過ぎに練習室代わってもらうよう約束していて。すいません、こちらこそ。話の途中で」
 そう言いかけると、先輩は既に、この数日で己の城と化している自身のベッドに腰掛けていた。そのまま手元のクレンジングで化粧を落としながら、「そうね、二人一緒の時の方がいいよね」と独り言ち、
「いいえ、大した話じゃないし。明日、大内さんがいる時に話すわ。ほら、せっかく代わってもらえるんだから、早く行ってらっしゃい!」
「でも」
「いいから、いいから! つべこべ言わず、練習第一。閉室時間まで最終確認に励みなさい」
 厳しい口調で先輩に促されるまま、私は楽譜を持ち、部屋を後にした。去り際、彼女の一瞬浮かべた寂しげな顔が、私の胸にチクリと痛んだ。
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