三章十八節 彼女だけの主旋律(八)

文字数 3,465文字

「そう。あれだけ、はっきり駄目って言ったのに、まるで騙し討ちみたいに、私をあの場に連れ込んで……私がどれだけ、辛かったか。裏切られた気持ちだったか、あんた、わかってる!?」
「うん。本当に……ごめんなさい」
 彼女の激昂に、私は頭を下げることしか出来なかった。暫く先日の不満をぶちまけていた彼女は、やがてピタリと一呼吸置き、
「それで、伴奏の件だけど、当然解消しようと思った。そして、金輪際、貴方とはもう、関わりたくないって」
 冷たい口調で吐き捨てる彼女の語は、全て予期していたことだ。そのまま立ち去る彼女に、私がみっともなく泣き散らす未来も。
 しかしその言葉を最後に、彼女は私を見つめたまま、微動だにしなかった。私がようやく、「うん、わか……」と言いかけたところで、彼女はふてくされたような顔を浮かべ、
「……と、言おうと思っていた。でも……あぁー! うん、もういいや、気持ちが変わった。今回の一件は、水に流します。その上で、あけびは、罪滅ぼしとして、これまで通り、一層私の伴奏者として、励んでください」
「え、それって……」
「何、嫌なの?」
 彼女の鋭い眼差しに、咄嗟に身を縮めて首を振る。その行為が満足だったのか、彼女は曖昧な笑みを浮かべたまま、外庭へと繋がる渡り廊下を眺め、
「由紀菜ってレズビアン、あの人母子家庭で育ったんだってね。幼い頃から、お母さんがパートを掛け持ちしていたみたいで、金銭的にも随分と苦労したみたい」
「え……そうなの?」
 初めて聞く話題に、私が思わず拍子抜けした声を発すると、彼女も思わず目を丸くする。ややあり、彼女は「どんだけ、お人好しなのよ」と小さく毒を吐いた後、
「私が父子家庭で、貧乏だったこと、どっかで彼女に話したんでしょ。公民館を出て、二人になるや、急にカミングアウトされちゃって。生活が困難な中でも、好きだった絵を描くことはずっと続けてきたことを、道中、熱く語ってくれた」
 苦笑いを浮かべながらも、彼女の口から嫌悪の情は感じられなかった。由紀菜さんが、そこまで彼女のことを気にかけてくれていたなんて。「しかもね」そこで彼女は、滑稽とばかりに語を強め、
「私、見えちゃったのよ。みずきって彼女に『大事な話してるから、電車降りたら折り返す!』ってLINEの文面を。はぁ、なんでなんだろ。あの人も、想像以上に今回の件の責任を感じていた……っていうか、自分のこと以上に、私とあけびの関係を凄く心配していた」
 そこで、彼女はゆっくりと視線をこちらに向け、
「やっぱり、あけびの人柄だよね。あの由紀菜って人だけじゃない。内気なあんたが、あの場にいた多くの参加者から、積極的に慕われていたんだもの。それでも、今日呼び出したときは、正直別れを口にする予定だった。でも、今のあけびの懺悔を聞いたら、なんかもう、どうでも良くなっちゃって」
 陽の光をうっすらと背負い、そう呟く彼女は、心無しか一層大人びて見えた。彼氏が出来て、留学したことで、彼女の内面も大きく成長したというのか。
「後、最近、合わせがちぐはくだったとはいえ、やっぱりむさおんの福島さんより、断然あけびとの方が、演奏しやすいんだよね。そもそも、練習してきた時間が全く違うし……言っておくけど、私は未だ由紀菜ってレズビアンには、好意的な目は向けられないから。それに同性愛の人とも仲良くなる気はない。それでもいいというなら、引き続き頼れる〝相棒〟として、よろしくお願いします」
 友達・親友の枠を超え、フルート奏者として、切るか切らないかに重きを置いた彼女は、かつての〝悦に酔い浸り、トゥルツェスニエフスキーを頬張る〟私にとって癒しの、彼女では無かった。
 と同時に、久々に見せた、彼女の緊張の解いた、繭らしい明るい笑みは、私の涙腺を一層緩ませた。
「ってか、さっきから、周りの人に見られてて、ちょー恥ずかしいんだからね。まぁ、今回の一件は、相当怒ってるから。罰として、暫くは私の練習優先で、よろしく!」
 からかい口調で、人差し指を突き出す彼女に、私は「もちろん」と泣き笑いで応じた。いつしかキャンパスは、学生の数が増え始め、それに呼応するかのように、空も徐々に夏の色を帯び始めていた。

    6

 この年の夏は、実に多くの悲劇が私を襲った。繭と仲直りをした翌週、千恵さんが自宅で倒れ、二度目の入院生活となった。幸い、一命は取り留めたものの、博人さん曰く「あまり、状態は芳しくない」らしい。
 京都のエンタメ制作会社で、国内史上類を見ない殺人事件が起きた翌日、浜田湯で相沢麻里江さんの「仙台栄達会」が行われた。
「みんな、ありがっとー! いつでも、仙台に遊びにおいでよー!」
 彼女たっての希望で、会には浜田湯の常連に彼女の銭湯仲間、江古田の住民、LGBTの人々が詰めかけ、待合所は終始、てんやわんやであった。
「あけびちゃん、繭ちゃんと仲直り出来て良かったねぇ。正直、駄目かと思ったけど……人生わからんもんだわ」
 大所帯の飲み会は、瞬く間に私の中枢を麻痺させた。浴室の裏手で、一人酔いを醒ましていたところ、彼女はかつてのあの夜と同じ、ニヒルな笑みを浮かべ、冷えた麦茶を私の頬に添えた。
「わっ、と!? ありがとうございます……はい、おかげさまで――」
 噛み締めるようにゆっくりと先日の一件を話したところ、彼女は眉を潜めながらも、最後の一押しが効いたんだねと、実に我がことのように涙ぐんでくれた。
「それにしても、せっかく繋いだ縁は、十分大切にしなさいよ。あけびちゃんにとって彼女は……うん、絶対幸せたりえる存在だから。まっ、私から言えることは、それくらいか……あっ、あと一つ。楽しみなさいね、若人よ!」
 満月を眺めながら、へへーんと缶酎ハイを煽る彼女は、出会った時と同じ、私にとって、憧れの東京の大人な女性そのものであった。
 その後、揺らぐ世界で彼女と話した時間は、私にとってかけがえのない思い出だった。それでも押し寄せる心地良い眠気に、次第に夢の世界へ誘われる。気づけば、眩い光の下、母屋の寝床へと横たえられており、彼女は既に東京を去っていた。

 そんな中でも、私は浜田湯の時間以外は、すべてピアノの練習に割いた。九月の繭の外コンと夏季外部講師特別レッスンが丁度一週ずれ込んだのは幸いしたが、それぞれの課題練習とまた前期試験で、七月と八月は怒涛の如く過ぎ去った。
 八月の下旬、私と香澄ちゃん、三浦君の三人で、今年のピアノ科選抜生によるコンサートを聞きに行った。
 殺すような暑さの都内の森のホールで行われた演奏会。計一八人の選抜生が、皆最高のパフォーマンスで奏でたショパンやベートーヴェンの難曲は、私たちの心をへし折るには十分であった。
「うん、全然駄目だ。来年あの場に立つためには、まだまだ技術も表現力も全然駄目」
 演奏が終了してから、一貫して無言で苦し気な表情を浮かべていた私の一言に、
「だなぁ。今年は特にハイレベルだったとはいえ、自分にとって足りない何かを、今回の一八人は示唆してくれたわ」と三浦君が、自嘲気味に己が手を眺める。
「一年後、どうなっているんだろうね」
 香澄ちゃんの声を落とした呟きに、私たちは揃って顔を見合わせる。
「誰があの舞台に立っているのか……それとも誰も――」
「そんなことないよ!」
 それまでの重たい空気を断ち切るように、私は咄嗟に声を上げていた。「だって私たちは、あの木谷優一先生指導の門下なんだよ。私たちが全員、来年選ばれないってこと――」
「うん、それは無いね。客観的に滝も小川も、十分あの一八人に届くレベルに達せられるだろうし。そもそも、僕が落ちる未来なんて考えられない」
 気を利かせてか、普段真面目で好青年な三浦君のほくそ笑みに「我ながら情けない発言だった。ううん、来年は私の圧巻の演奏に、二人は客席で恐れ慄いてるはず!」と香澄ちゃんが、普段の勝ち気な態度で、その小さな身体に闘志を燃やす。
「私こそ! 香澄ちゃんや三浦君に、絶対に負けないから!」
 三者三様内に漲った闘志をぶつけ合い、やがて私たちはメトロの入口で別れた。
 一人JR組の私は、再び公園口へと戻った。辺りには各々の一日を楽しんだ親子連れや学生がいて、その背後には、この世を覆い隠す真っ赤な夕陽が、ゆっくりと沈みかけていた。
 私はその消えゆく巨大な熱球に、今年は挑むように暫く眺めていた。やがてその陽光が完全に消え去り、森が漆黒に包まれ始めた時、私も我に返ったように、まばらな人の流れに加わった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み