一章十六節 埼玉ピアノ音楽祭(九) 

文字数 1,968文字

「それじゃ、以上でレッスンは終了です。改めてですが、本日は本当に良い演奏でしたよ。今後に期待していますね!」
 壁に立てかけられた鳩時計が、一一時の鳴き声を上げる。それまでの厳しい顔つきから、ふぅと表情を緩め、そうまっすぐに放たれたティタローザの語は、私の脳を慢心で麻痺させるには十分だった。
 この言葉は、生徒への決まり文句か、はたまた私だけへの激励か、その本心は定かではない。でも、少なくとも課題曲が未熟な生徒には、決して投げかけることのない語だ。
 私は思わず口を開く。普段なら決して、表に出ることのない、心の隅で押さえつけていた欲が顔を覗かせる。高校時代の全国挑戦での挫折。上京して頓に感じている自身の才の限界、周囲への嫉妬。
 私は一つ生唾を飲むと、乾いた声で「先生……一つ良いですか」と尋ねる。「ん、どうしましたか?」彼がそう言い終わらぬ内に、私は声を震わせ、
「私、中学の頃からピアニストに憧れて、この春上京しました。でも東京の音大に入学したら、周りとのレベルの差、自身の限界性をひしひしと感じまして……ただ、今日、先生とのレッスンを通して、また少し自信を取り戻せた気がします。先生、こんな私でもまだ、ピアニストになる可能性はありますか!?」
 もう二度と巡り来ることのないティタローザとの個別レッスン。この一二〇分の時間を、一つの後悔のないまま終わらせたかった。
 顔を上げた瞬間、彼の大きく見開かれた二重の瞼が目に入った。彼は心底意外そうに、またそれ以上に残念そうに、ゆるゆるとかぶりを振り、
「小川さん……残念ながら僕の見立てでは、あなたのピアニストになれる可能性は、極めて低いと言わざるを得ません」
 静寂に包まれた室内に、彼の一切の妥協を許さない厳しい一言が響いた。
 私は黙って、続きの言葉を待つ。彼は、「あまりこういうことは、外の生徒さんには、話したくありませんが」と前置きした上で、
「さっきも述べました通り、小川さんのピアノには光るものがあります。現に一年でこの音楽祭に招かれ、これだけの演奏を披露するのですから、周りとの実力は、ひと際抜きん出ていると言っても、間違いないでしょう」
 そう話す彼は、私のすっかり使い古され皴になった「海原の小舟」の楽譜を手にとる。彼は暫くそれを見つめると、パタンとゆっくり閉じ、途端に険しい表情で私を見つめ、
「ただ『ピアニストになる』となると話は別です。例えばこの曲は、そこまで難易度の高い曲ではありませんが、それでも細かいミスはいくつもありました。また独特の解釈と演奏方法こそあれ、それがミスを補えるほど〝天性の才能〟かと言われれば、正直疑問を抱かざるを得ません。
 今から鍛錬に稽古を重ねれば、ひょっとするとどこかのコンクールに引っかかり、ピアニストの足掛かりを掴める可能性もあるかと思います。でも、さっき音大の一年生と言いましたが、逆にこの歳で全国クラスの受賞経験が無いというのは、ピアニストになるには極めてヘビーです」
 彼が諭すように紡いだ言葉は、まさにこの数年来私が頓に感じ、蓋をしてきた事実だ。私は漸く一つ深い息を吐くと、そっとピアノの一音に触れ、
「……ありがとうございます……はい、憧れのティタローザ先生に、そう言われるのであれば、綺麗さっぱり、吹っ切れそうな気がします! すいません先生、最後に身勝手な相談を……時間まで延長してしまって!」
 小さく笑みを浮かべ、真正面から彼と向き合う。不思議と涙は出なかった。要はきっかけが欲しかったのだ。あの日、私の心に刻まれた楔を、断ち切るための、とっておきの刃を。
「……正直、あなたが『ピアニストを目指していた』とは、思いもよりませんでした。いいですか、今述べたことは推測の一つです。小川さんはまだ若い。ピアニストになれるか否かを含めて、あなたにはまだ無限の可能性があるのです。
 一個人の意見ですが、どんな形であれ、ピアノは続けていくべきだと思います。せっかくの技量を、磨かず腐らせてしまうのはもったいない。〝翼を持った鳥は、羽ばたいてこそ、真の美しさを見せる〟です」
 彼の心からの労りと激励に、私は鍵盤に載せた両の手を眺める。「せっかくの技量」この言葉を、今をときめく世界的ピアニストから引き出せたのだ。それはどんなに誇るべき、また糧にしなければならないことか。
 トントン、扉の方から次の生徒のノック音が聞こえる。大丈夫ですね、そう問いかける彼の表情に、私はこくんと力強く頷くと、改めてありがとうございましたと深々とお辞儀をし、レッスン室を退いた。
 こうして、私とティタローザの生涯忘れ得ぬ個別レッスンは、ある種後腐れを残さないまま、一つの幕を下ろした。まさかその一年後、その再演を迎えることになろうとは、この時の私には知る由も無かった。
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