三章十六節 彼女だけの主旋律(六)

文字数 3,648文字

 調理を開始してから三〇分が経ち、砂糖の加えた果肉を煮詰め続けた頃には、さすがに陽も傾き始めていた。
 再び辺りを漂う甘い香りに、奥の卓にて由紀菜さんの絵本の読み聞かせに興じていた美紅ちゃんが、
「甘い香りー、みく、またジャム食べたいー」
 無垢な笑みを浮かべながら、トコトコーとこちらへと駆けてくる。
「わっ、美紅ちゃん? ちょっ! 火にかけているから、危な――」
「おっと。みく……ちゃんって、言うの? 可愛い名前だねー! 今、お姉さんたち、美味しく作っているから。ごめんだけど、ママともう少し我慢していてもらえる?」
 あわや小棚にぶつかるかというところで、繭は実に手慣れた手つきで、そっと彼女を抱きしめた。
「美紅!? こら、急に走っちゃ駄目でしょ! すいません、咄嗟のご対応を、ありがとうございました」
 一瞬の出来事に、慌てた美紅ちゃんママが、心底安心したように礼を述べると、
「いえ……危なかったんで、いつもの対応をしたまでです……ケガが無くて、何よりでした」
 普段の繭なら、そこからママさんとも仲良くなるはずだが、彼女はぎこちなくそう述べると、そっと美紅ちゃんの背を押し返す。
「繭……ありがとう。やっぱ、子供扱うの本当上手だよねぇ。私だけだったら、一体どうなっていたことやら」
「上手……っていうか、単純にあけびが、内気なだけでしょ。銭湯のバイト始めたなんて言っていたけど、相変わらず、人嫌い、直ってないじゃん」
 溜息を吐きながら、そっと見せるあきれ顔に、「いやぁ、咄嗟の子供は、まだレベルが高い」と私はかぶりを振りながら、木べらをすくう。
 ここにきて、初めて見せた彼女の素の表情に、僅かながら心から安堵する。と、なおも二人を見つめ続けていた、美紅ちゃんママは、少し逡巡した後、
「あの、もしかして、お姉さんも小川さんと同じ音大生さん、なんですか? ひょっとして、楽器も、同じピアノ……」
「あ……いえ。えっと、同じ音大ではあるんですが、私はピアノじゃなく、フルート科」
「フルート! ねぇ、由紀菜ちゃん、さっきフルートを題材にした漫画編集って言ってなかったっけ? 丁度いいじゃん! このお姉さんから、色々話聞いてみなよー!」
 それまで手持ち無沙汰にスマホをいじっていた由紀菜さんは、美紅ちゃんママに呼ばれるや、急に拍子抜けした顔で、こちらを凝視する。
「ちょっ、美紅ちゃんのお母さん……そんな、急に……ねぇ、まずは、梅ジャムが出来上がってから――」
「おー、糸引いてるし、そろそろ、仕上がったんじゃないの? はい、そうしたらねぇ。ここで火を止めて。この空き瓶に入れましょう」
 慌てた私への助け舟とばかりに、麻里江さんが色とりどりのガラス瓶を持って、そっと寄ってくる。
「美紅ちゃん、さっきあれだけ、カナッペ食べたのに、まだジャム食べたいのー? しょうがないねぇ、お姉ちゃんたちように取っておいたヨーグルトの余りがあるから、一旦あっちに戻ってなー」
「やったね! 美紅、ヨーグルトもらえるんだってよ! それじゃあ、出来上がるまで、あっちで由紀菜さんの絵本の続き、聞いてよっか」
 美紅ちゃん以上に、破顔一笑なママに「早く食べたーい」と言いながら、彼女は渋々戻っていく。
「うわぁ、このガラス瓶、どれもレトロで可愛いですね。じゃあ、この小ぶりのやつ、使っても良いですか?」
 涼し気なデザインのガラス瓶に目を輝かせながら、幾分心を許したかのように繭が尋ねる。それを麻里江さんは、もちろんと素早く仕分け、
「どうぞ。ちなみにこれ、百均で買ったガラス瓶だから、完成したら、そのまま上げちゃっても構わないよ」
 終始変わらぬ自然な口調で答えると、彼女は「これ百均なんですか!? 凄く嬉しいです!」と幸せそうに、たった今流し込んだ梅ジャム瓶を眺め始めた。
「さて……それじゃあ、予め作っておいた梅ジャムで、ヨーグルトとバターロールをいただきますかー。あ、ヨーグルトはまだ数に余裕があるから、残っている皆さんもよろしければ!」
 麻里江さんの号令に、室内に残っていた五名の参加者が皆、嬉々とした顔で、唯一片付けの済まされた卓へと集まってくる。
 麻里江さんの方で配膳された梅ジャムヨーグルトを、私たちは美味しそうに頬張る。と、先程まで読書に耽っていた井上の叔母さんが、繭の顔をじっと眺め、
「へぇ、番頭さんのお友達が来るって言うから、少し待ってみた甲斐があったねぇ。随分べっぴんさんじゃないかい! はい、うちのコロッケ、あと一つしか無いけど、よければ食べなー」
 鞄から先程配布していたコロッケを取り出すや、ようやく腰を下ろし、エプロンを取り外した麻里江さんが、
「井上さんのお惣菜、マジで美味しいから! ねー、あけびちゃーん、浜田湯も、入浴備品や牛乳だけでなく、軽食やお酒も販売してよー。この時期は冷えっ冷えのビールを湯上がりに、キメたい」
 そう言いながら、本日二杯目の梅酒(ロック)を美味そうにちびり始めた。
「麻里江ちゃんの目的は、それしかないでしょー! というか、お姉さん、お名前なんて言うの? この娘、そろそろ音楽習わせよう思ってんだけど、フルートもいいかなって」
 美紅ちゃんママの質問に、繭はコロッケをかじりながら、すっかりいつもの親しみやすい口調で、丁寧に相談に乗り始めた。
 この間、彼女は、私が実に多くの参加者と顔馴染みであることに終始驚いていた。と同時に、やはり子供に好かれやすい性分なのか、美紅ちゃんに終始なつかれ、随分と嬉しそうであった。
「あ……いけない。誠の存在、完全に忘れてた! 麻里江ちゃん、もう一個、ヨーグルト残ってる? ちょっと呼んでくるわ!」
 それまで口数の少なかった由紀菜さんは、ハッとした声を出すや、彼女に確認を取った後、颯爽と外へと出て行った。
「あー、誠さん!……あらあら、相変わらず、今井さんは、面倒見が良いわねぇ。あれ、そういえば今日は、彼女さんはいないのかい?」
 井上さんの何気ない一言に「彼女?」とイベント初参加の檜山さんが首を傾げる。
「あぁ、彼女『レズビアン』って言って、同い年の女の子と、お付き合いしてるのよ。私も初めは随分驚いたけど、今じゃ二人いないと、違和感を覚えちゃうくらい、凄く仲が良いのさ」
「ねー、それでいったら、誠さんカップルも、お互い得意不得意を補いあっていて、本当理想の関係よ。うちなんて、元々期待して無かったとはいえ、旦那は本当仕事一辺倒で、その他のことは空っきしだし」
 美紅ちゃんママと井上の叔母さんが、自然とLGBTの話に転じたことに、私はそっと三方を見やる。麻里江さんはこちらを気にしながら無言でいてくれて、檜山さんは「あら、今話題の!?」「多様な愛があっていいわよねぇ」と会話の間に挿す声は、随分と肯定的であった。そして、
 私がちらりと隣人の様子を伺った瞬間、下手くそにも彼女と目が合ってしまった。彼女は怒りを通り越したように、すっかり諦めと呆れが入り混じった顔で、
「いいよ、もう。元々今回も、これが目的だったんでしょ。もう、いい、分かった。何の知識も無く、勝手に差別した私が悪かった」
 声を潜めながらも、ある種、望みを断ち切ったかのように、彼女は一つ息を吐くと、
「すいません、私もその辺、疎くて」
 いつもの彼女のような調子で、低姿勢な声で、それでもニコニコと積極的に、三人の会話に加わり始めた。
「ごめーん、遅くなった! 誠、どこにいるかと思ったらさー、隣の公園で猫とじゃれ合っているの!」
 会話の弾んでいるところに、由紀菜さんが、汗だくの誠さんを連れて戻ってくる。すかさず井上の叔母さんが、「あらー、丁度良かった! 今、檜山さんと本田さんに、由紀菜ちゃんたちのことを話していたのよー」と何の衒いもなく、声を弾ませる。
「あ……えっとー?」
「今井さん、宮崎君! これまで随分、苦労なさったのねー。私も詳しいことは、分かんないけどさ、それでも多様な愛があって良いと思うのよー」
 思いのほか、心に刺さったのか、すかさず由紀菜さんの手を取る檜山さんに、彼女は困惑しながら、卓に目を向ける。
「由紀菜さん。前回はすいませんでした。私何の知識も無く、『気持ち悪い』だなんて、言ってしまって。美紅ちゃんのお母さんや井上の叔母さんの話を通して、抑えることの出来ない根源的な〝愛〟の尊さを理解しました」
 神妙な顔で頭を下げる繭に「あぁ……こっちこそ、そのためにこうして活動してるんだから!」と面食らった顔をしながら、本日一の満面の笑みを浮かべた。
 そこからは、由紀菜さんや誠さんも加わり、LGBTの話の続きや、私と繭との関係、フルートや由紀菜さんの漫画編集のことが、終始和やかに話し合われた。
 確かに彼女は吹っ切れたように、心の陰りなど見せず、心底明るく振る舞っていた。しかし、互いに会話こそあれ、私の目を一向に合わせない繭の姿に、私は今回の行動が、最悪の結果を招いたことを、十分に理解した。
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