四章四節 地に立つというこの証(四)
文字数 1,840文字
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薄闇の差す銀杏並木を、マフラーを手繰り寄せ、歩を進める。季節外れの寒風は、繭と練習室を退くと、一層猛威を振るっていた。身体を縮こませ、駅へと急ぐ学生と逆行するように、私は暖色の灯る〝大きな巣〟へと舞い戻る。
「由紀菜さん!?」
「お~、あけびちゃん、久しぶりー! さすが、音楽大学はキャンパスも洗練されてるねー……こっから眺める景色なんて、あれ……そう、手塚治虫の未来都市のよう――」
「来るなら事前に連絡くださいよ! なんですか、唐突にこの写真――」
暖房がしっかり効きながらも、閑散とした学食の椅子に腰かけると、先程送られてきた、学生行き交う正面玄関で、ポーズを決め込む彼女の写真を提示する。
「いやぁ、池袋で打ち合わせがあってさぁ、その後、特に予定も無かったから。一回来てみたいと思っていたんだよね……それに、最近、あけびちゃん〝忙しい〟みたいだし、これは私の方から出向かないと、一生会えないなって」
嫌味ったらしさなど微塵も見せず、外で購入したカフェラテに口をつける彼女に、私は「すいません。わざわざご心配をかけ……」と、挙げた腕をそっと振り下ろす。
先月バイトを辞めて以降、私は一度も浜田湯に足をむけていなかった。『おかげさまで、経験のあるバイトを二名、雇うことが出来ました』なんとも事務的なLINE文面を最後に、博人さんとのやり取りも止まっている。
なお、それと並行して、先月と先週の二度、由紀菜さんからの誘いを私は断っている。実際、共に予定があったのは事実だが、一連の件で、彼女も彼女なりに、気にかけてくれているのだろう。
「まぁ、別にその辺りはいいよ。というか今回は、こっちのが本題だから」
嘆息すると、彼女はややビジネス口調で、カバンから一枚の書類を卓に置く。企画書? そこには随分簡素な文字で、
『本格的な冬を前に、行きたい都内のレトロ銭湯選!』
「仙台の麻里江さんの紹介で、以前付き合いのあったテレビ局が、再来週の日曜、浜田湯を特集したいんだって。博人は乗り気なんだけど、その日はバイトの一人が友人の結婚式らしくて、本業でもう一人、人手が欲しいんだってさ」
彼女の発言に、私はクリップで留められた書類を眺め、意外だなと感じた。以前もマスコミからの取材申し込みは一二度あったものの、博人さんは全て断っていた。「地域の人に愛される銭湯であれば、それで十分だから」〝彼〟はそう言ってはいたものの、それが建前であることは十分分かっている。
本当は世界の基準を断罪するマスコミが、一般大衆の視線が、怖いのだ。かつてテレビがきっかけで、辛い目にあったというのに、今回はその本音のリスクを冒してでも、浜田湯の認知に買って出ようというのか。
千恵さんを失って間もなくも、がむしゃらに切り盛りする博人さんに、改めて感服する。しかし、私はその情報を〝彼女〟から一度たりとも聞いていない。
「そうなんですね……その日は別段、予定もありませんが、でも私なんて、もう……そもそも、このこと自体、博人さんから全く知らされていませんでしたし」
「だよね。だと思った。本当、あの子、あけびちゃんに対しては、格好つけすぎなのよねぇ。そもそも一連の件も、はっきり向き合うのを……うぅん、ごめん、今のは口が過ぎた」
と、に、か、く! 彼女は普段の人の良いお姉さんとしてでなく、少し厳しめの社会の先輩の顔つきで、
「明後日までに連絡頂戴。もし難しければ、恭介や誠辺りに声かけるから。でもね、あけびちゃん」
そこで彼女はじっと私の顔を眺め、
「この機会がきっと、最後のチャンスだから」
そう述べると、コッコッとヒールの音を立て、紙コップを通りのゴミ箱へと放り投げる。
「……わかりました。明後日までには、はっきりと返事します」
オフィスカジュアルな出で立ちは、普段デニムやTシャツを着込んでいる彼女としては、随分新鮮だった。私は、座学のテキストを詰め込んだリュックに触れると、一つ息を吐く。
「ん、分かった。吉報を願っているよ」
そこで彼女は、ようやく安堵の微笑を浮かべ、
「さてと、それじゃ、今日は寒いし、鍋でも食べに行くか! 駅前で丁度美味しいもつ鍋屋、私知っているんだよねぇ」
瑞希も呼ぶかーとスマホを叩く彼女に、私も気持ちを変え、是非と腰を上げる。
人通りの絶えた真っ暗な外庭は、より寒さを増しているようでもあった。ジャケットを羽織りながら、瑞希さんと電話する彼女に続き、私もマフラーを手に、学食を後にした。
薄闇の差す銀杏並木を、マフラーを手繰り寄せ、歩を進める。季節外れの寒風は、繭と練習室を退くと、一層猛威を振るっていた。身体を縮こませ、駅へと急ぐ学生と逆行するように、私は暖色の灯る〝大きな巣〟へと舞い戻る。
「由紀菜さん!?」
「お~、あけびちゃん、久しぶりー! さすが、音楽大学はキャンパスも洗練されてるねー……こっから眺める景色なんて、あれ……そう、手塚治虫の未来都市のよう――」
「来るなら事前に連絡くださいよ! なんですか、唐突にこの写真――」
暖房がしっかり効きながらも、閑散とした学食の椅子に腰かけると、先程送られてきた、学生行き交う正面玄関で、ポーズを決め込む彼女の写真を提示する。
「いやぁ、池袋で打ち合わせがあってさぁ、その後、特に予定も無かったから。一回来てみたいと思っていたんだよね……それに、最近、あけびちゃん〝忙しい〟みたいだし、これは私の方から出向かないと、一生会えないなって」
嫌味ったらしさなど微塵も見せず、外で購入したカフェラテに口をつける彼女に、私は「すいません。わざわざご心配をかけ……」と、挙げた腕をそっと振り下ろす。
先月バイトを辞めて以降、私は一度も浜田湯に足をむけていなかった。『おかげさまで、経験のあるバイトを二名、雇うことが出来ました』なんとも事務的なLINE文面を最後に、博人さんとのやり取りも止まっている。
なお、それと並行して、先月と先週の二度、由紀菜さんからの誘いを私は断っている。実際、共に予定があったのは事実だが、一連の件で、彼女も彼女なりに、気にかけてくれているのだろう。
「まぁ、別にその辺りはいいよ。というか今回は、こっちのが本題だから」
嘆息すると、彼女はややビジネス口調で、カバンから一枚の書類を卓に置く。企画書? そこには随分簡素な文字で、
『本格的な冬を前に、行きたい都内のレトロ銭湯選!』
「仙台の麻里江さんの紹介で、以前付き合いのあったテレビ局が、再来週の日曜、浜田湯を特集したいんだって。博人は乗り気なんだけど、その日はバイトの一人が友人の結婚式らしくて、本業でもう一人、人手が欲しいんだってさ」
彼女の発言に、私はクリップで留められた書類を眺め、意外だなと感じた。以前もマスコミからの取材申し込みは一二度あったものの、博人さんは全て断っていた。「地域の人に愛される銭湯であれば、それで十分だから」〝彼〟はそう言ってはいたものの、それが建前であることは十分分かっている。
本当は世界の基準を断罪するマスコミが、一般大衆の視線が、怖いのだ。かつてテレビがきっかけで、辛い目にあったというのに、今回はその本音のリスクを冒してでも、浜田湯の認知に買って出ようというのか。
千恵さんを失って間もなくも、がむしゃらに切り盛りする博人さんに、改めて感服する。しかし、私はその情報を〝彼女〟から一度たりとも聞いていない。
「そうなんですね……その日は別段、予定もありませんが、でも私なんて、もう……そもそも、このこと自体、博人さんから全く知らされていませんでしたし」
「だよね。だと思った。本当、あの子、あけびちゃんに対しては、格好つけすぎなのよねぇ。そもそも一連の件も、はっきり向き合うのを……うぅん、ごめん、今のは口が過ぎた」
と、に、か、く! 彼女は普段の人の良いお姉さんとしてでなく、少し厳しめの社会の先輩の顔つきで、
「明後日までに連絡頂戴。もし難しければ、恭介や誠辺りに声かけるから。でもね、あけびちゃん」
そこで彼女はじっと私の顔を眺め、
「この機会がきっと、最後のチャンスだから」
そう述べると、コッコッとヒールの音を立て、紙コップを通りのゴミ箱へと放り投げる。
「……わかりました。明後日までには、はっきりと返事します」
オフィスカジュアルな出で立ちは、普段デニムやTシャツを着込んでいる彼女としては、随分新鮮だった。私は、座学のテキストを詰め込んだリュックに触れると、一つ息を吐く。
「ん、分かった。吉報を願っているよ」
そこで彼女は、ようやく安堵の微笑を浮かべ、
「さてと、それじゃ、今日は寒いし、鍋でも食べに行くか! 駅前で丁度美味しいもつ鍋屋、私知っているんだよねぇ」
瑞希も呼ぶかーとスマホを叩く彼女に、私も気持ちを変え、是非と腰を上げる。
人通りの絶えた真っ暗な外庭は、より寒さを増しているようでもあった。ジャケットを羽織りながら、瑞希さんと電話する彼女に続き、私もマフラーを手に、学食を後にした。