五章四節 即興曲 FP63 第1番~第10番(四)

文字数 2,171文字

 『即興曲 FP六三 第一番 ロ短調』
 一世を風靡した時の女流ピアニストに献呈されたという本曲は、ABAの三部形式をとっており、唐突な音型から叙情的な中間部を経て、再び急速な音型で終わる。
 ある種、作曲者の〝おはこ〟が凝縮された一曲といっても良い。
 それは続く『第二番 変イ長調』『第三番 ロ短調』も然り。祈りを捧げるような優美さを兼ね備えた曲調かと思えば、後者の両の手は、翼を得た小鳥のように、終始鍵盤の上を自由気ままに飛び回る。
 フランシス・プーランク、彼もまたかつてのチャイコフスキーと同じく、全世界の人々が認める名作曲家という元、一人の悩み深き同性愛者であった。
 本曲が作曲された前後、つまりバレエ音楽『牝鹿』でプロの作曲家として大成功を治め、また父から相当額の遺産を受け継ぎ、公私ともに絶頂の時期にいた一九二〇年代終盤から一九三〇年代初めにかけて。彼はパリの路上で出会った画商とお抱え運転手という二人の男性と激しい恋に陥っていた。
 しかしこの恋も、決して実ることは無かった。この同性愛傾向を知った幼馴染は、彼への求婚を断り、彼はその後、生涯を独身としてその人生を、幕を下ろすこととなる。
 『第四番 変イ長調』『『第五番 イ短調』気づけば第二幕も後半へと差し掛かっていた。三段譜による音域の拡大、変調とウィットに富んだ二曲を披露し、第六番では跳ねるような歯切れのよいリズムで行進曲のように音をテンポよく奏でる。
 そう、ティタローザが本曲を紹介し、それに木谷先生が同調し、この場で披露することを推した本当の理由。
 初めはチャイコのピアノ協奏曲と同様、天才作曲家の陰で隠された、一人の苦悩する同性愛者の思いのピアノ曲を、いわば救いの旋律で弾いてほしいのだろうと考えていた。
 しかし購入したサブスクで初めてこの十五曲を聞いた時、多様な音色に溢れながら、ピアノ協奏曲のような厳かな雰囲気とは異なる、どこか誠実な曲調に違和感を抱いた。
 それは、年明け本曲をライブカフェで演奏することが決まり、彼とその作品について調べたことで一層増した。
 確かに本曲は、ピアノ曲に否定的だったプーランクが唯一、好意的に評価したものであり、また最も油の乗った時期の彼が、熱烈な恋の渦中の下、作成した曲ともいえる。
 しかし後者に主軸を置くなら、例えば画商への思慕に溢れた恋曲『オーバード』の方がより濃密的であり、また後年彼は同じピアノ曲『メランコリー』をお抱え運転手へと直接献呈している。
 『第七番 ハ長調』これもまた穏やかな冒頭から、徐々に昂ぶりをみせたかと思えば、最後は妖しい音色でスッと閉じられる。
 うん、それなのになぜティタローザは、いずれも三分にも満たない小品ともいえる『即興曲』をあえてチョイスしたのか。
 その一つのヒントとなったのが、丁度千恵さんが亡くなり、博人さんからバイトの首を宣告された直後のこと。果てない絶望の渦中、彼女らへの昔日の思いの下、音を奏でていた時、妙にその音色に深みが増したように感じられた。しかしそれは、まるで描きかけの塗絵のように、どこか不完全であり歪であった。
 それがはっきりと一つの彩りに転じたのは、丁度先月、クリスマス早朝の練習時だった。前日の高揚がまだ残っていたのか、やや上機嫌に「第一番」を弾いた時、自分でも驚く程、曲は色彩を放ち、一つの大作として顕在化した。
 この時、私はその趣旨をようやく理解した。人への悲痛な思いとそれでいて人生の喜び、これら両者の気持ちが合わさって、初めて一つの作品として完成するという本曲に、ティタローザは様々な人々と出会い、そこで構築された感性を通して、音楽としてより一層昇華してほしいということを暗に示唆してくれたのではないか。
『少しでも多くの作品で経験を積ませる。音大講師としてはある種、模範的な指導か』
 かつての指導時の一言が思い返される。それは天才ピアニストによる最大の指導であり、同時に未来ある学生へ一人の好々爺が提示した一つの願いでもあるようであった。
 「第八番」を経て、残すところは、あと二曲だ。楽譜を切り替えて息を入れる間もなく、流れるように『第九番 ニ長調』を紡ぐ。
 これも後に知ったことだが、プーランクは敬虔なカトリック信者として、前述した古風で繊細な教会音楽を作曲しながら、その一方生粋のパリジャンとして実に数多くの軽妙洒脱な楽曲を作成している。
 最後の小曲『第一〇番 ヘ長調』多様な音階を使用しながらの単純な響きは、それでいて気まぐれなフレンチポップの一片を現しているとも言える。
 彼の作風について、ある音楽評論家は、「修道士半分、腕白小僧半分」と評している。
 つまりティタローザの指導と願いを加味した上で、木谷先生も、どれだけ経験と感性を身に着け、このライブを迎えられるか。或いはそれを踏まえた上で、きたるロビーコンサートに備えるか、というある種期待とふるいの天秤の下、この場を設けたと思えなくもなかった。
 そう考えると今回の公演は果たして及第点だったのだろうか。
 先程の微笑にうすら寒さを覚えたところで、私は最後の一音を弾き終えていた。
「……と」
 静寂に包まれる室内。戻ってきた世界。上気した顔のまま、深々と一礼すると、間髪入れず辺りから万雷の拍手が鳴り響いた。
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