一章十二節 埼玉ピアノ音楽祭(五) 

文字数 2,372文字

 合皮のピアノ椅子に腰かけた瞬間、石前講師の無言の圧を感じた。ねっとりとした鋭い眼差しの奥に潜む、嘲笑と微かな期待の光。
 沈黙の中に、それぞれの思惑の入り乱れた濁った空気が形成されている。気持ち悪い。私は本能的にそれを振り払うように、咄嗟に鍵盤に指を滑らせた。
 Op.一九-五。タイトルには「不安(或いは「眠れぬままに」とも)」と名付けられているが、私はこの曲が、ただ単に陰鬱さを表現しているだけとは、どうしても思えなかった。
 確かに唸るような低音が織り成す冒頭は、人間の苦悩や焦燥を表しているといえる。しかし直後の、右の主旋律が滑らかに奏でる高音は、まるで暗闇の中に一筋の光明が射し込んでいるように錯覚され。以降、ポコアジタート(激動して・興奮して)と四分の六拍子で奏でられる鬱屈と救いのソナタは、次第に変調をきたすように交じり合い、やがて開かれた空の下、祝福の音に転じてそのメロディーを終える。
 私が最後の一音をそっと弾き終えると、講師はやや意外そうに、猫目をより一層カッと見開き、
「へぇ。Op.一九-五を、ここまで、希望に満ちた解釈で演奏した人は、初めてですよ。曲調も無言歌集特有の抒情性と優美さを、こなれた感じで弾きこなしていますし……もしかして小川さん、メンデルスゾーンは持ち曲だったりするのですか?」
 彼のあくまで淡泊な問いかけに、それでも私は謙遜した態度を変えることなく、
「いえ……ただ私の担当講師が、メンデルスゾーンが好きなもんで。おかげで無言歌集も何曲か、レッスンで練習しました」
 微かにはにかみ交じりでそう呟いた途端、講師が何かに気づいたようにハッと顔色を変える。
 直後に彼はにやりとほくそ笑み、まるで何か悪巧みを思い付いたとばかりに、
「そうですか……どうでもいいですけど、懐かしいですね、その方言。もしかして小川さん、中部圏出身ですか?」
「えっ、方言……あぁ、そうですが。一体――」
 ピアノとは全く関係無い、咄嗟に口から出た方言を指摘され、みるみる顔が紅潮する。しかし講師はそれを見逃すはずも無かった。瞬間彼は、グッと私に身体を向け、
「やっぱり。僕も浜松出身ですから、その接続語には親近感があるんですよ……さて、小川さんは、都立音大ですよね。もしかして、担当講師は、木谷優一君だったりするのですか?」
 続けざまに自分の担当講師の名を指摘され、私の背に小さな汗が滴る。それでも別段隠す理由も無く、私はゆっくりと「はい、そうです」と首肯する。
「ふふっ、でしょうねぇ。あの人は、〝醜いアヒルを純白の白鳥に変えることに〟全てをかけている人ですから。
 さて、小川さん。あなたはこの曲を、都内一、大きなホールで演奏します。老若男女、あなたの演奏を待ちわびる聴衆で埋めつくされた、一生に一度の晴れ舞台。
 しかし悲しいことに、あなたはここにくるまで、たくさんの代償を支払ってきました。ホールに立ち、ふと客席最前列に目を向けると、そこにはこれまであなたのピアノに打ち負け、憤怒と嫉妬に駆られる数多の演奏者の群れ……その状態であなたは、最高のパフォーマンスを披露することが出来ますか?」
 彼の試すような、ひときわ長い問いかけに、私は咄嗟に昨日の森下さんの姿を思い浮かべてしまった。
 私がこの音楽祭の招待理由を告げた時の、彼女の虚無に満ち溢れた乾いた冷笑。直後の必死に自分を繋ぎ止めんとする、彼女の優しい気遣いに、続けざま地元にいた頃の、あの負の記憶が押し寄せる。
「……もちろん、披露する自信はあります。そんなことで演奏をかき乱されるようでは、とてもピアニストとしてやっていけません」
 私が絞り出すように告げると、彼はふぅんと既に答えは出たとばかりに、自分のピアノに視線を転じる。
「まっ、そりゃそう答えるしか無いですよね、随分と酷な質問でした……やはりこの曲は、もう少しやるせなさを出して弾いてください。あと左のメロディーが少しおざなりですので、そこを意識して。それじゃご苦労様でした」
 そう告げると彼は、一人目の学生の時と同様に、もはや視線をこちらに向けようとはしなかった。
 落第か。私は一つ礼を述べると、先程の二人の座る椅子の隣へと戻る。その間、はたして彼は立ち上がりもせず、心底退屈そうに、四人目の学生を待ちわびた。

    4

「笹川先輩、小川さん、聞いてくださいよ! 今日レッスンで私、あの北先生から、お褒めの言葉を頂いたの!」
 ディナー会場にて、嬉々としてミートローフを頬張る大内先輩に、私は間髪入れずに賞賛の語を放つ。
「えっ、北先生って、あの芸大の!? 凄いじゃないですか! ってかそもそも大内先輩、担当講師、北先生なんですね――」
「そうなの! いやぁ、やっぱり、しっかり練習してきた甲斐があったよ。それにね、先生が言うにはね!……」
 随分と嬉しかったのだろう。彼女は、レッスン初日後の、疲れ切った表情で食事をする学生をものともせず、今日一日のレッスン譚を事細かに語り始めた。
 私はそれを絶妙なタイミングで相槌を打つ傍ら、隣のもう一人の先輩をそっと見やる。
 パスタを添えたフォークを持つ手は先ほどと変わらないまま。弾んだ大内先輩とは対照的に、レッスンから戻ってきた後の笹川先輩は、食事時でもなお、ずっと浮かない顔だ。
 正直物憂げな態度は、それだけでも十分画にはなる。おっと、いけない。私が邪念を振り払わんとすると、彼女は一つ溜息を吐き、おもむろに立ち上がり、
「ごめん――私やっぱり食欲が無いから、先に部屋に戻るわ。大内さん、おめでとう。引き続きレッスン、頑張りましょうね」
 彼女は賛辞の笑みを称えると、そっと席を外す。それを見て、大内先輩も多少いたたまれなくなったのか、以降続きを話すことなく、無言で残りのミートローフを平らげ始めた。
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