四章九節 地に立つというこの証(九) 

文字数 2,665文字

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 新幹線から下車するや、朝の寒風を肌身に感じた。これがかの〝赤城おろし〟。休日の早朝だけあって、駅周りは、人の数はまばらであった。
 既に今年の大役を終えた銀杏通りを抜け、およそ二〇分で、『元治湯』にたどり着いた。
 風格感じる社寺風の門構え。さすがに暖簾は外されていたものの、入口の営業カレンダーは最新の年度を表していた。どうやら廃業という、最悪の現実は回避できたらしい。しかし希望的可能性は、未だゼロに近いままだ。
 さて、まずは玄関に伺う。いや、突然押しかけるのはどうなんだろうか。とりあえず一度、頭を整理しよう。休憩がてら、入口脇の椅子に腰かけた瞬間、
 チュィィィィンという音が、静寂を断ち切るように辺りに鳴り響いた。
 裏口? 思わず音の鳴る方へ向かうと、果たしてスキンヘッドの男性が、汗を拭いながら熱心に薪を作っていた。
 男性の手元には、町工場で見るような巨大なチェーンソーが握られていた。どうやら騒音の元はこれらしい。男性は一心不乱に、木材を切り割っていった。地元では鳥小屋と呼ばれた片隅の廃屋には、大量の薪の山。
「……何? なんか用か?」
 暫くぼんやり眺めていると、視線を感じたのか、男性は切るのを止め、どす声を放った。
 慌てて我に返った私は、すいませんとぺこんと頭を下げた上で、
「えっと、一つお尋ねしたいことがございまして。こちらって、元治湯さんですよね……岸和田洋介さんって、ご在宅ですか? あの実は、辻無博人という人について、少しお伺いしたいのですが」
「……岸和田洋介は、俺の父だ……あんた、辻無博人とはどういう関係だ」
 ぶっきらぼうな口調ながら、その目つきは獣がわが子を守るような、警戒と分別の目つきであった。私は怯むことなく、「私は博人さんの銭湯でバイトをしている者です。実は昨日から博人さんが失踪してしまい――」
 そう述べかけた瞬間、彼は小さく嘆息した。
 既に選別は終わったとばかりに、新たな廃材を取りに向かいながら、
「……知らねぇ」
「え?」
「……残念ながら、あいつのことは、何も知らないな。東京から遠路はるばる来てくれて、大変申し訳ないが、俺は全く力になれそうもない」
「あの……せめて、何か」
「悪いが、今日の仕事の準備で忙しいんだ。ほら、とっとと帰んな」
「でも……」
「見世物じゃねぇって言ってんだよ! お前、日本語伝わらんか!」
 激しい罵倒に、さすがに引き下がるしかなかった。私は慌てて「お仕事中失礼しました」と踵を返すと、彼は無言で再びチェーンソーを構えた。

 かつての修行先、元治湯という一縷の望みが途絶え、私はすっかり消沈したまま、気づけば枯れ葉散る大通りへと舞い戻っていた。
 すぐさま瑞希さんたちに報告するべきであったが、なんとなく新幹線に乗るまでと、気が引けた。
 LINEを見ると、履歴は昨日のままだ。相変わらず向こうも、進展は膠着したままらしい。
「すいませーん、音楽ホール前で〝販売甲子園〟行いまーす!」
 と、駅前の中心地へと繰り出したところで、数名の高校生スタッフからチラシが手渡された。
『高崎えびす講市』
 なるほど、お祭り。先程から通りでテントを組み立てる人がいるのはこのためか。私は法被を着た学生に「音楽ホールはどの辺りなんですか」と尋ねると、彼女らは実に生き生きとした表情で、丁寧に案内してくれた。

 私は促されるまま、駅とは真逆の方向へと歩を向ける。なんとなく今の状態で、そのまま東京へと帰りたくなかった。お祭りを見物する余裕は無かったが、せめて自分の好きな空間で、少し時を潰したかった。
 城址公園の一画にある音楽ホールは、荘厳な建物ながら閉鎖されており、まるで獰猛な生き物がうたた寝している、そんな雰囲気に近かった。
 私は物寂しさに、なんとなく唯一空いていた〝生き物の口〟へと入り込む。やはり扉は閉ざされていたものの、その横には実に豊富なコンサートのチラシがラックに挿し込まれていた。
 適当に選りすぐって、祭りの準備を進めるホール外の公園ベンチへと腰掛ける。『高崎クリスマスライブ』『ディアンスキー新春オペラ』『前橋 第二二回 日本歌謡』『ミュージカル 劇団芸術座』うん、やはり地方のパンフレットは、その土地ならではの趣があって、非常にわくわくする。
 最後の一枚を目にした瞬間、私の鼓動はドッと高鳴った。『地元音大生 春の演奏会……根本美穂……プロフィール……関西学生ピアノコンクール銀賞……』
 それは一見すると、郷土出身の現役音大生が、地元で演奏を披露するという何の変哲もないコンサートパンフであった。しかし、
 複数の宣材写真が並ぶ中の一画、相変わらずのっぺりした、能面のような顔写真に私はジッと目を凝らす。
 根本美穂、かつて埼玉ピアノ音楽祭にて、共に大阪音大講師石前準也氏に指導をつけてもらった四人のうちの一人の名だ。
 祭の最終日、関西学生ピアノコンクール出場をかけ、披露した演奏会。結果、私は敗北し、彼女が勝利した。その後、己の未熟さと向き合うのが怖くて、彼女の現況を調べるのは避けていたが、まさかあの関西学生コンクールにて、銀賞を取るなんて。
 胸がカッと熱くなり、チラシに無数の雫が滴り落ちる。言わずもがな、その才能の差は、当時から既に分かっていたことだ。
 しかし、今の心の状態で、その現実が、蛇口を決壊させるには十分であった。
 去年の夏には、全国学生コンを目指し戦っていた音大生が、かたや全国コン銀賞で、かたや銭湯の経営者探しで高崎くんだり!
 私は一体、何をしているのだろう。
 この数か月程の〝彼〟に対する自分の優柔不断さ。避けてきた思い。〝彼女〟の失踪、それに応えられない己の情けなさ。
 もっと気づいて手を差し伸べるべきであった。その時、私はようやく気付いた。私が今後、目指すべき未来。曖昧にせず、全力を尽くす対象。
 周囲の戸惑いの視線を感じながらも、溢れる嗚咽は止まらなかった。お祭りの準備に水を差す形となって、本当にごめんなさい。
 前方で人影を感じたところで、私は「すみません」と泣き顔のまま、笑みを取り繕う。
 しかし私の表情は凍り付いた。一切の喧騒が、まるで別世界のように、瞬く間に立ち消える。
「小川さん……なんでこんなとこいんの……」
 桃色のファーコートを羽織りながら、ビニール袋を手にした相手は、心底驚きながら、素の自分をさらけ出していた。
「博人さん……」
 かろうじて掠れ切った声で、その相手の名前を呼んだ瞬間、〝彼〟は苦しそうにその華奢な手を差し出した。
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