二章九節 レインボーフラッグ(六)

文字数 2,834文字


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 この年の夏は、記録的な猛暑日にもかかわらず、浜田湯は多くの利用客で賑わいを見せた。
 老若男女それぞれ、リラックスした楽し気な会話が、方々で聞こえる。僕はそれを日常の〝音〟として、毎日祖父母の手伝いをする傍ら、そろそろ卒業後の進路にも思いを馳せていた。
 就職するのは当然として、出来れば、多少きつくとも、割の良い会社で働きたい。
「少しでも早く稼いで、じいちゃん、ばあちゃんを楽にさせてあげたいんだよね。後、LGBTにも理解のある会社なら、言うことなしだ」
 休日、駅前のカフェで、当時付き合い始めた彼氏に零す。優等生タイプながら、唯一銀のピアスを入れていた彼は、「博人は、本当祖父母思いだよなぁ」と労りの視線で、笑って肯定してくれた。
 僕の中で、穏やかな将来設計が見えてきた。そんな矢先、丁度残暑に陰りが見え始めた昼下がりのことだった。テスト期間で早めに帰宅すると、祖母が普段は見せない青ざめた顔のまま、居間の座椅子に虚ろに座り込んでいた。
「おばあちゃん、どうしたの!?」
 慌てて駆け込んだ僕に、祖母はハッとした顔でこちらを見つめ、
「あぁ、博ちゃん、おかえり……おじいちゃんね、癌が見つかったのよ」
 今にも泣きだしそうな震える声で、祖父の癌宣告を短く告げた。

 進行形の胃癌だったという。数日前から食欲不振はあったものの、過労と夏バテだと高を括っていた僕と祖母は、医者の診断に、冷や水を浴びせられたように、呆然とする他無かった。
 幸い手術は無事に成功し、十月上旬には退院の運びとなった。それでもその間、浜田湯は休業とせざるを得ず、やがて満月が都内の街を明るく照らす晩、久々に帰宅した祖父は僕と祖母を自室へと呼び出し、
「浜田湯なぁ……今年末で閉めようと思うんだ」
 名残惜し気に、それでもすっかり割り切ったといった表情で、淡々と告げた。
「本当は、東京のオリンピックまで続けたかったが、身体が言うこと聞かないようじゃ、しょうがない。それに博人も、来年からいなくなるし、人手も足りん。ある意味今回が、一つの区切りなのかもしれんわな」
 そう述べると、長年苦楽を共にした祖母をそっと見つめ、小さな苦笑いを浮かべた。
「そう……お父さんが決めたことなら、私は何も口出ししませんよ。長いこと本当に、お疲れさまでした」
 と、祖母は既に覚悟を決めていたかのように、労い気に小さく頷いてみせた。
「お母さん、すまんな……よし、それじゃ残り三か月、しっかりとやりきって――」
「ごめん! ちょっと待って、おじいちゃん!」
 瞬間、まとまりかけた議題に水を差すように、僕は咄嗟に口を開いていた。
「あっ……えっと」
 思わず話を止めてしまい、瞬く間に鼓動が高鳴る。「どうした、博人?」珍しく物申す孫に、不審な顔を向ける二人も気にせず、僕はそのまま間髪入れず、
「浜田湯だけど、僕が継ごうと思……いや、僕に継がせて下さい! 高校を卒業したら、浜田湯の番頭として、僕をここで働かせてください!」
 これまで思い描いていた夢とは裏腹な思いが、自分でも驚くほど自然に、胸の底から口を衝いていた。
「本当は僕、卒業後は民間の会社への就職を考えていました。早くお金を貯めて、おじいちゃん達に恩返ししたいって……でも、それは止めにします。これだけ歴史のある、地域の皆から愛される浜田湯を、終わらせたくない……これはおじいちゃんのためとかじゃない。僕個人の想い、意思です」
「……博ちゃん」
「お前……本気か」
 途端に和らいでいたその場の空気が、一瞬にして凍り付く。と同時に祖父が、これまで一度も見せたことのないような鋭い眼差しで、僕を正面から睨みつけた。
「……本気です」
 絞り出すように放つ彼の語に、僕も負けじと、初めて彼をきつく見据えた。
 沈黙が暫く続いた。やがて、彼はふぅと一息吐くと、「紙とペンを持って来い」と険しい表情のまま祖母に命じた。
「お前にとって、人生の岐路を決める選択だ。そう簡単に承諾なんかは出来ない。一か月、時間をやる。それでももし、お前の決意が変わらないようだったら」
 と彼は持って来た紙に、すらすらと文字が記される。それはある種、一つの選択肢として彼が思い描いていたかのように、極めて自然な体で、メモ書きが手渡され、
「『岸和田洋介、群馬の元治湯』俺の幼馴染で、長年苦楽を共にした銭湯経営仲間だ。こいつには、事情を伝えておくから、高校卒業後、こいつんとこで半年、みっちり修行して来い。もしそれで及第点を貰ったら、その時、初めて家に帰ってこい」
「就職は、これまでの学生の手伝いとは全く違うんだ。それぐらいの覚悟が無い限り、浜田湯は俺の代で終わらせる」
 そう述べると、彼は厳しい顔立ちのまま再び僕を睨みつけて、颯爽とその場を去って行った。

「祖父は、こう言うことで、遠回しに、僕をそのまま民間の会社に就かせたかったんだろうな。銭湯という不安定な商売では無く、きっちり一般企業に勤めて羽ばたいてほしいって……でも僕は結局、浜田湯を継ぐ道を選んだ。高校を卒業するとすぐに高崎へと出向き、一年間岸和田さんに、みっちり銭湯経営のいろはを教えてもらった」
 舞台は再び浜田湯の休憩所。頭上の時計の針は、既に話し始めてから一時間が経過しようとしていた。
 しかし私は飽きもせず、吸い込まれるように、博人さんの独白に聞き惚れていた。〝彼〟が一呼吸置き、珈琲牛乳の最後の一口を飲んだところで、ふと素朴な疑問が頭へと浮かび、
「でも……それだけ就職に意気込んでいたのに、どうして急に方針転換を。わざわざ群馬へと武者修行へと赴く程、博人さんを駆り立てたものって……」
「駆り立てたもの、ね――」
 そう呟くと、〝彼女〟は自嘲気味な笑みを浮かべたまま、目前のソファ、静まり切った室内、引き戸の先を順繰りに眺め、
「一つには……祖父が、もう長くはないと思ったのもあるね。頑張ってお金を貯めたところで、祖父はすぐにいなくなってしまうだろうなって……でも一番の要因は、〝当たり前になりかけた穏やかな日常〟が再び消えることに恐怖を抱いたのかもしれない。自分の力でどうにかなるなら、とことん守り抜いていきたい。その思いに突き動かされるように、当時の僕は頑張れたんだと思う」
 そう述べる〝彼〟の柔らかな目元には、いつしか揺るぎない炎が小さく宿っていた。
「果たして祖父は、僕が群馬にいる間、癌の再発により、あっけなく逝ってしまったよ。さっきも言った通り、僕は自身の〝性〟を最後まで、彼に話すことは出来なかった。でもその一方、僕の信念、想いは彼にも、少なからず伝わったと思う。長い独白もここまでだ、最後にそのことだけ少し、話させてほしい」
 千恵さん辺りが気を遣ってくれたのだろうか。この間、休憩所には誰一人、訪れる客はいなかった。私はそんな博人さんと人々との、見えない信頼関係に羨望と尊敬の念を抱きながら、三度口を開きかける〝彼女〟に、再度居住まいを正した。
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