三章十二節 彼女だけの主旋律(二)

文字数 2,556文字


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「それじゃあ、本日は皆さん、お疲れさまでした。後はもう、無礼講ですので、好き放題やっちゃってください」
 上半期の門下演奏会も無事終わり、講堂から休日の学食へと場を移したところで、私たちは揃って「乾杯!」の音頭を取る。
「いやぁ、三浦君、シューベルトの『ピアノ即興曲』圧巻だったけど、選曲地味すぎん? せっかくウィーンに行ってたんだし、モーツァルトでも弾けばよかったのにー」
「俺は、門下演奏会は弾きたい曲を弾くがモットーだから、これでいいんだよ。しっかし、滝は本当にショパン好きだなぁ、熱量が半端なかった。後、小川。ドビュッシーも良かったけど、個人的には先生べた褒めのチャイコフスキー『ピアノ協奏曲第一番』が聞きたかった」
「あれは、技術が最悪だったので、とても皆さんの前では披露できません。それより、今年入った一年、どれもレベル高くない?」
「あ、それ、わかるぅ。特に初っ端のシマノフスキを弾いた宮本君。彼、金子先生の門下蹴ってまで、うちに志願してきたみたい」
「マジ!? 金子門下を落とされた俺らとしては、内心複雑な気持ちだな……木谷先生、確かにいい先生ではあるけど、いや、笹川先輩の影響力が凄いのか――」
 紙コップ片手に、同期三人でとりとめのない会話を、生き生きと交わす。このひと時が、今の私にはカンフル剤のように、心を優しく解きほぐしてくれた。
 私たち三人は他と比べても、特段仲が良い同期という訳ではない。三浦君は留学、香澄ちゃんは外コンと、本当、直近で三人が顔を合わせるのは、せいぜい年二回の定期演奏会か木谷先生主催の門下イベントぐらいであった。
 それでもこうして集まれば、まるで旧知の仲のように、分け隔てなく近況を語らい合う。それは普段、火花散らす香澄ちゃんも一緒。思ったことを体内でろ過せずに、受け答えする尊さに、私は学内で久々に、心から安らぎと活力を貰った気がする。
「香澄ちゃーん、ちょっといい? 横山先輩がさ、この前参加した外コンの話、聞きたいって」
「あ、はいー、今行きます! それじゃあ、ちょっと一旦、私抜けるね! あ、そこに置いといたオードブル。後で食べるから、残しといてよ」
 一個上の先輩の誘いに、彼女はこっそり私たちに最後の一言を強調すると、「なんですかー」と、フリルのついたシャツワンピをたなびかせ、窓辺へと去って行った。
「香澄ちゃんさ……お嬢様なのに、なぜか食い意地だけは凄いよね」ひと際、紙皿に大きく盛られた唐揚げやサンドイッチを眺めながら苦笑を漏らすと、三浦君も、
「だな。あの身体でダイナミックな演奏をする源は、やっぱり食事って訳な……にしても、逆に繭は、食に対して無頓着すぎるんだよねぇ。まぁ小食な俺が、言えた義理ではないが」筋が浮き出た腕で、空の紙皿をおろしながら、そっと顔を歪める。
「そういや、あいつから聞いた。小川たち、コンビ解散の危機なんだって。真剣な顔で『方向性の違いかも』なんて言うからさ。詳細は知らないけど、いつの間に仲違いしてんだよ」
 少し声のトーンを落としながら、心配そうな顔色を浮かべる彼に、私は「あぁ……やっぱり、聞いた」と居心地悪げに手元のサワーをあおる。
「あのさ……それなんだけど、三浦君って繭の過去の話聞いたことある? 私、これだけは無理とか。何かカミングアウトされたことって」
 詳細は知らない。そう述べていることからも、繭は彼氏の三浦君にさえ、件のことは話していないのだろう。そこに繭の義理堅さと、同時に三浦君もあえて追及してこないことに、私は意を決し、はっきりと彼と向かい合う。
「いや、そんな話、聞いたことない。そもそも、あいつそんなに昔のこと、しゃべんないし。俺も……今の繭を満足させれば、後はなんとか乗り越えていけるって、そう思ってる」
「もちろん、話してきたら、そこで改めて考え合うけど、俺から一方的に聞いたりはしないよ」 
 彼女を心から労りながらも、決してぶれることなく断言する彼に、私は尋ねた自分が消え入りたいほど、浅ましい思いで一杯であった。
「まぁ、何が原因か、俺は全く追及する気はないけど」彼はそう嘆息した上で、鋭い眼差しでキッと私を見据え、
「とにかく二人で、一度じっくり話し合ってみなよ。もしそれで、お互いに譲りあえなければ、それだけ大切な信念だって、それを守り抜いていけばいいし、でも」
 そこで彼がいつしか、視線を少し下げ、私の骨ばった両の手を眺めていることに気づく。彼はそこで一つ言いよどみながらも、
「傍から見ても、繭の演奏パートナーは、やっぱり小川こそ相応しいって、思うんだよね。ウィーンに留学する前に、一度だけ、繭の公開レッスンを観に行ったことがあるけど、あれだけ息の合った伴奏は、めったにない」
 かつての演奏光景を思い出しているのか、恨めしさと羨望を入り交えながら、はっきりと言い放つ。彼がお世辞や気遣いで、こんなことを言わないことぐらい、私は十二分理解している。だからこそ、私は同期の何よりの励ましに、無意識にそっと目尻を拭った。
「でも、個人的には、小川が伴奏続けてくれた方が、何かと好都合なんだよな。来年のロビーコンサートに一本集中されるのも、俺にとっては不利だし、最悪、伴奏の負担が新たに一つ増える可能性だってある。来月から繭と同棲生活始まるんだし、頼むから彼女様のご機嫌をこれ以上損ねないでくれよ」
 最後に、意地悪気に手をすり合わせたところで、「お待たせー!」と香澄ちゃんが戻ってくる。「ちょい、お手洗い。滝、お前のオードブルは死守しといたぞ」入れ替わるように、食堂の裏手へと去って行く彼に、「何、私のいない間に、何の話してたの?」と彼女が訝し気に視線を向ける。
「なんもないよ。来年のロビーコンサート、お互い負けられないね、みたいな話をしてたところ」
 咄嗟に思いついた虚言にも、自分の声が思いのほか、力んでいたことに気づかされる。
 彼女の顔が強張るのに合わせ「ちなみに、横山先輩とは、どんな話したの」と笑みを浮かべ、カナッペを手に取る。
 窓辺から眺める、内庭からは早くも夏の気配が漂い始めていた。今年の埼玉ピアノ音楽祭からは自分は外されたものの、音大二年目の夏も一筋縄では終わらない、そんな気がしてならなかった。
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