二章四節 レインボーフラッグ(一)

文字数 2,755文字


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 休日のオータムフェアで沸く商店街を抜けると、この日ばかりは浜田湯も、威厳のある建屋がどこか少し、浮足立っているようにも、見えた。
 『浜田湯の菊祭り』件の可愛いイラストが立て掛けられている、看板のその先には、うっすらと賑やかな談笑が、先程から絶え間なく漏れ聞こえた。
 私は銭湯グッズの入ったリュックの背を握りしめながら、中々次の一歩が踏み込めないでいる。先日は安請け合いのように応じてしまったものの、私のような新参者が、この先の空間に足を運んでも良いのか。後十秒、息を吸い込んだその刹那、目の前の暖簾が、ぱっと揺らめき、
「いらっしゃ……って、あぁ、こんにちは。あ、丁度良かった。今栗ご飯が炊けたところでね――」
 姿を現した、割烹着を羽織った青年は、顔を上気させそう述べると、こちらへヘコリと笑みを振りまく。
「こんにちは……早速、来てしまいました。でも、私なんか、お邪魔では――」
「ううん、全然……ねぇ、新しいお客さんが来てくれたよ! 由紀菜、案内してあげてー」
「はーい。ってかなんで私が、毎回案内役になってんのさ……」
 そう不機嫌そうに顔を出した、グラデーションカラーの女性は、それでも私を見ると、ニコリと微笑み、
「あれ、若い女の子! めずらしーい、大学生? この辺の娘なの? それとも、ひょっとして――」
 彼女の右腕から、虹色のブレスレットがきらりと煌めく。しかしその刹那、背後から、残念ながら彼女は違うよと、気怠い声で、
「由紀菜ちゃん、この娘は私の命の恩人なのさ。彼女がいなかったら、私は一晩、あの人気の無い路地で動けないでいたよ」
 ドレス姿の石垣千恵が、まんざらでもなさそうに、のそりと姿を見せる。
「学生さん、お久しぶりね……なんだっけか、ピアノの音楽祭に行っていたんだっけ。どうだったい、満足のいく音楽祭だったか、え?」
 彼女の問いかけに、私はよく覚えていたなと驚くと共に「もちろん、充実した音楽祭ではありましたが」と苦笑いを浮かべる。
「ただ、おばあ様の言った通り、私にとって、一つの岐路となりました」
 続けざまの一言に、彼女は「あぁ」と吐息を漏らす。それでもすかさず、しわくちゃの手で私の肩をポーンと叩き、
「そうかい……それじゃひとっ風呂浴びて、また気を取り直しておいき! とは言っても、今日は祭り。風呂に入る前に、暫くあの子たちと楽しんでいきな」
 ぶっきらぼうな表情ながら、やや労りの入った口調で、場内の奥を指差す。
「あの子たちも、毎日世界に葛藤し、戦い続けている子たちだから。貴女にとって、得られるものも多いと思うよ」
「は、はい?……ありがとうございます……」
 私が頷くのを確認すると、彼女は「よし」と満足そうに一声発し、またひょこひょこと定位置の番台へと腰掛けた。
「千恵さん、メインレース始まりますよ! ここは一番人気のコマンドチェック、実績は他を圧倒しています」
「ばーか、不良の馬場はその馬は走らんよ。ここは阪神巧者のミスエイティーンを軸……」
 彼女は、待ち兼ねるように屯していた、数名の若者と近所のおやっさんに熱く議論を交わすと、手元の新聞に軽快に赤ペンを走らせる。
 彼らの見上げるテレビ画面には、丁度複数の馬が芝生に集まっていた。この時、私は先日の青年のぼやきの意を、漸く理解した。
「本当、千恵さんの影響で、恭介も、どっぷりハマっちゃったねー。……ねぇ、私たちはあっち行こうよ! えっと、お名前、なんていうんだっけ?」
「あけびです……小川あけび、あの、由紀菜……さん?」
「そ! 今井由紀菜。普段は池袋の出版社で働いているの……そして彼女が私の〝彼女〟黛瑞希。ねぇ、みずきー、人数も増えたし、今度はババ抜きで遊ばない?」
 私たちが向かった引き戸の手前、普段は休憩所として機能しているソファの置かれたスペースには、老若を問わない女性がトランプを持ち合っていた。その中の一人、ベリーショートに大きなリングピアスが印象的な女性の隣に、彼女は実に嬉しそうに肩を寄せると、そのままゆっくり腰を据えた。
「別にいいけど。〝LGBT理解者〟とはいえ、あまり初対面の人に、開口一番カミングアウトしない方がいいよ。或いは、もしかして、貴女……」
 彼女が掲げる華奢な右腕には、由紀菜さんと同じ、虹色のブレスレットが美しく輝いていた。
 しかし私は、彼女の尋ねるその趣旨がわからない。事態が追い付けず、気まずい思いで、暫くその場に立ち尽くしていると、
「ごめん……みずき。彼女は、ここの行きつけの子みたいなの。なんでも千恵さんの命の恩人なんだとか」
「へぇ、命の恩人……それって、どういうことなの、詳しく教えてほしいな」
「いや、本当に、当たり前のことをしただけで――」
 興味深げに見つめる二人のキラキラした目に、私は気圧されながら、ソファに座りかける。すると、それじゃ、人が増えたようだし、私はここで失礼させてもらうねと、眼鏡をかけた人当たりのよさそうな叔母ちゃんがすくりと、腰を上げる。
「あぁ、井上の叔母さん、今日はありがとうございました……またこっちに来た時に、コロッケでも買いに行かせていただきます!」
「あはは、いいのよー。私も美味しい御馳走をいただいて、しかもトランプにまで夢中になっちゃって……久々だったけど、随分楽しかったわー。それじゃ……美紅ちゃんも、またお店でね」
 彼女は由紀菜さんに笑顔で応じると、隣にいた(小学低学年くらい?)少女にも一声かけ、ゆっくりと休憩所を去って行った。
「さて……美紅、それじゃ私たちも帰るわよ! すいません、今日はこの子のお遊びに、長く付き合っていただいて……しかもこんな、可愛いイラストまでいただいちゃって」
 続けざまに奥にいた、赤ら顔の親子が立ち上がる。母親の手元には、色鉛筆で描かれた少女の自画像の紙が握られていた。それに対し瑞希という女性は、ニコリと小さく微笑み、
「いえいえ、喜んでいただいて、何よりです。美紅ちゃんも、またお姉ちゃんと遊ぼうね」
「やだー、みく、もう少しトランプであそびたい。やだー、まだかえりたくないよー」
 母親の促しに、暫く駄々をこねていた彼女であったが、「帰りにスーパーに寄るから、そこでお菓子でも買おう」と母親が説得すると、渋々帰り支度を始めた。
「あ、もうお帰りになられますか。今、栗ご飯をお持ちしたのですが、どうですか、もう少しくつろいで行かれては」
「あぁ、ひろちゃん、ありがとう。でも、随分長居しちゃったから、今日のところはこの辺で」
「そうですか……じゃあせめてこれ、お家ででも食べてください」
 彼が持参した栗ご飯をタッパに詰めている間、母親は隣席で繰り広げられている叔母様方の話に加わり、やがて方々に一礼し、娘共々去って行った。
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